後漢
姓は高、名は頤、字は貫方。劉璋のもとで広漢属国都尉、益州太守を歴任、建安十四年(209)に亡くなる。
姓は熊、名は不詳。劉表のもとで綏民校尉、曲江の県長を兼務し、建安二十一年(216年)に亡くなる。
袁術史の続き。
ちょっと通説をくつがえしてみる。目からウロコの袁術史。
後将軍号の来歴、袁紹との関係について。
いま持ってる後漢三国関係ものをちょっと整理してみた。
わたしはまったく知らなかったんだけど、【雲子春秋】で、かれと子孫の名が引用されている。出典は『世説新語』の注に引く『晋陽秋』で、なかなか信頼度の高い史料だ。じつはわたしも『世説新語箋疏』を持っていたんだけど、本文だけをざっと見て、三国関係…
『後漢書』景丹伝を訳してみた。絨毯がどうのこうのって部分が難しくてよく分かんないよ。
『後漢書』傅俊伝を訳してみた。
『後漢書』万修伝を訳してみた。やる夫光武帝スレでは萬脩になってる人。
『後漢書』馬成伝を訳してみたよー。
盧芳が天子を僭称したのと入れかわりに、隗囂が劉秀に帰服します。
『後漢書』陶謙伝 (原文)初三輔遭李傕亂,百姓流移依謙者皆殲。 (訳文)むかし三輔が李傕の乱に遭遇したとき、百姓たちが陶謙のもとへ流れて身を寄せたが、すべて滅んだ。 ふつう三輔の流民といえば195〜196年の飢饉を契機として流出した人びとを想起する…
まず曹仁伝を見てみると、 『三国志』曹仁伝 (原文)從征徐州,仁常督騎,為軍前鋒.別攻陶謙將呂由,破之,還與大軍合彭城,大破謙軍.從攻費、華、即墨、開陽,謙遣別將救諸縣,仁以騎撃破之. (訳文)徐州遠征に従軍し、曹仁はいつも騎兵を率いて軍の先…
曹洪がいつも小物扱いされてて萎える。
朱治伝の記載がおかしい。
これ確定じゃね?
耿弇が智略の限りを尽くして張歩を翻弄し、これを平らげます。竇融が劉秀に従って西方の与党となり、また陳俊が琅邪に赴いて東方の重鎮となりました。
ここから『後漢紀』第五巻。朱浮との仲違いから叛旗をひるがえした彭寵が、つまらない事件によりあっけなく滅亡。いっぽう劉秀の部下からも反逆者を出して、新たな強敵として前途に立ちふさがります。
われわれ現代日本人にはなかなか分かりにくい要素だ。
史書の歪曲が酷い酷い、やー酷い。
なぜか『三国志』その他の史料が、袁紹は機を見ても行動できない鈍重な人物として描こうとしている。
荀彧の旧友。
【中華文化網】の『後漢紀』を見ると、涼州のことを「敘州」と書いている部分がある。とくに注釈はされていない。手元の張烈点校『両漢紀』(中華書局)では「涼州」になっている。こちらも注釈はなし。【中華文化網】のテキストは中研院【漢籍電子文献】をコ…
『閲微草堂筆記』灤陽続録一先輩の趙鹿泉(趙佑学)さんが教えてくれた。呂城というのは、呉の呂蒙が築いたものである。河川をはさんで両岸に二柱の神のほこらがある。一方は唐の汾陽王の郭子儀である。これだけでも訳がわからないのに、もう一方は袁紹の部将…
んなわきゃーないが。劉備は陶謙に徐州を譲られてからずっと袁紹系の武将だったのだから、のちに車胄を殺して曹操に叛旗を翻したって言うけど、そりゃ劉備が寝返ったんじゃあなくて、もともと袁紹麾下の同僚だった曹操のほうが袁紹に叛いたので、自然、劉備…
『後漢書』注に引く『帝王紀』は、献帝の字が「伯和」であったとしている。劉虞の子が、帝諱を冒している。
河北に新皇帝が即位していた可能性がある。初平二年(一九一)、袁紹は韓馥とともに劉虞を帝位に即けようとしたが、袁術や曹操の反対に遭ったばかりか、劉虞その人に峻拒されて計画は頓挫し、献帝に頭を垂れざるをえなかった。というのが史書の語るストーリ…
後漢の献帝は帝位を劉虞や劉表に譲るつもりだったのかもしれない。初平四年(一九三)、献帝は段訓を使者として劉虞を督六州事としている(『後漢書』劉虞伝)。その六州の内訳は定かでないが、配下の公孫瓚が督四州(幽州、幷州、青州、冀州)になっている…
ついに馬援が登場。