魏延は家康、楊儀は三成
魏延は諸葛亮の部下でもあり、同時にまた、同僚でもある。そのことを忘れてる人が多いような気がする。
魏延の役職は、前軍師・征西大将軍。この前軍師というのが丞相府の役職で、これだけを見れば諸葛亮の部下ということになるけど、征西大将軍というのは皇帝直轄の将軍職で、この役職については諸葛亮の下知を受ける立場ではない。
楊儀だの蔣琬だの費禕だの姜維だの王平だのってのは、みんな丞相府で頭角をあらわした身内同士であって、彼らから見れば、征西大将軍の魏延なんてのは外様にすぎず、それが前軍師だなんだと言って丞相府に入ってきたら、何様のつもりだ、という感情になってくるはず。
この関係を日本の関ヶ原戦役にあてはめると、諸葛亮が豊臣秀吉、魏延が徳川家康、楊儀が石田三成、蔣琬・費禕らが五奉行、姜維・王平らが七本鑓といったところ。馬岱は外様の有力武将の子弟で、さしずめ前田利長あたり。諸葛亮の後任として漢中を守った呉懿も、やはり丞相府の外部の人間で、これは毛利輝元くらいに相当するだろうか。
順を追ってみると、こんな感じ。
秀吉(諸葛亮)が死んだ。家康(魏延)は秀吉のまつりごとを輔佐していたが、もとは秀吉に比肩する外様の有力武将で、秀吉に請われて客分(前軍師)になっていた。家康は秀吉の死後、その政権を我がものにせんと目論む。
その野心を知って、豊臣恩顧(丞相府)の奉行・部将(掾属)らは家康に反発、おのれの政治権力を維持するため、家康への対抗姿勢をあらわす。五奉行筆頭(長史)の石田三成(楊儀)を盟主とし、増田長盛・大谷吉継(蔣琬・費禕)らがつらなった。秀吉配下の部将(姜維・王平)にも同調するものがあった。三成はまた、外様大名にも家康への対抗を呼びかけた。家康と同様、外様大名として豊臣政権に協力していた前田・毛利氏(馬岱・呉懿)らがこれに応じ、包囲網の一翼をになう。
関ヶ原戦役の史実では、七本鑓(福島・両加藤ら)を初めとする豊臣恩顧の部将の多くが家康方に寝返り、前田・毛利両氏は家康に内通したものか中立を号して動かず、両者は激戦のすえ三成方が敗北した。
一方、魏延の反乱では、丞相府で頭角をあらわした姜維・王平らの部将が楊儀を支援し、府外の有力武将であった呉懿・馬岱らも魏延に協力せず、魏延は孤立したすえ自滅に近いかたちで没落した。
家康と魏延を比較すると、家康が秀吉配下の部将や外様大名を味方に取りこんだことが、勝敗を分けた要因であると思われる。逆にいうと、もし魏延が姜維を初めとする丞相府の部将、呉懿を初めとする上将軍を味方に引きいれていれば、楊儀を破り、蜀の実権を握っていたかもしれない。魏延のクーデターの成否はまったく紙一重だったと思う。