「日本は加害者」史観

おやおや、どうしたことだろう。松永英明さんが「日本は加害者」史観をくさしておられる。

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【絵文録ことのは】長野の戦争遺跡訪問【2】「信州松代 れきみちの家」
【絵文録ことのは】長野の戦争遺跡訪問【3】松代大本営・舞鶴山地下壕(1)
【絵文録ことのは】長野の戦争遺跡訪問【4】松代大本営・舞鶴山地下壕(2)

逆に一億総懺悔だのといった「日本はすべて加害者、中国朝鮮はみな被害者」というのも受け付けない

おそらく、単純な「日本は加害者、朝鮮・中国は被害者」という史観では現代に対応できまい。逆に、「日本は何も悪くない」「日本が過去過ちをおかしたかのような記述が少しでもあれば、日本を貶めるものだ」というのも行きすぎだ。数々の史実は、そのような単純なものではないことでないことを伝えている。

どうも『「日本はすべて加害者、中国朝鮮はみな被害者」』という『単純な「日本は加害者、朝鮮・中国は被害者」』史観を持つ人がいると考えておられるらしい。いったい、どこのどいつを想定しておられるのだろうか?わたしには松永さんが一人相撲を取っているようにしか見えてこない。

歴史的事実を前にして、日本の加害者としての事実に着目するのも当然アリだし、日本の被害者としての事実に着目するのも当然アリだし、日本人と朝鮮人との交流の事実に着目するのも当然アリだし、それらのうちどの見方が正しいとか間違ってるとかいうことはなくて、ただ単にその時代や論者、あるいは文脈によってどの見方を重視するかウェイトが変わるだけのことである。日本の加害行為を摘示するために被害事実や彼我の交流を「なかった」ことにする人など見たことがない。松永さんには心あたりがあるらしく、このエントリはそうした人への批判としたいようだ。いや、しかし、それはどこのどいつなんだ?心あたりがあるなら、その人に直接的に言えばよいのではないだろうか。

そもそも、松永さんが繰りかえし言及する「史観」にはどういう意味を持たせているのだろう?歴史的事実を観察し、解釈するにあたり「史観」なるものが必要であるのか、読みとりの「文脈」という意味を持たせる場合をのぞいて、わたしははなはだ疑問に思っている。もちろん歴史的事実を観察し、解釈するにあたって、当人が意識しないうちになんらかの価値判断が予断的に混入することは大いに考えうることで、わたしはそれをいかなる場合においても好ましからざることとして了解しているのだが、松永さんは好ましき史観と好ましからざる史観とがあるとお考えのようである。それはイデオロギーではないのか。

イデオロギーありきの運動体ならばそういうことはできないかもしれないが、「日本人はみんな加害責任があり、朝鮮人はすべて被害者だ」という視点では発掘できない証言も多々あるはずだ。そういう意味で、現地では日本人だって大変だったという視点に立つことの可能な、柔軟な視点を持っている「れきみちの家」の方向性を、わたしはすんなりと受け入れることができた。

体験者から証言を聞きとるにあたり、「日本人はみんな加害責任があり、朝鮮人はすべて被害者だ」という視点でもって、「日本人だって大変だった」という視点には立てずに証言を発掘しようとする者がいるらしい。だから、いったい、それはどこのどいつなんだって。やっぱ松永さんの一人相撲なんじゃないの?

強制連行されてきた朝鮮人はおよそ7000人。だが、それ以外に、3000人の日本人も労働していた。また、恵明禅寺の娘さんと朝鮮人労働者の結婚話にもあったとおり、現地日本人と朝鮮人強制労働従事者の間には暖かい交流も実際に存在していた。こういった事実を踏まえて考えると、この戦争遺跡を「日本から朝鮮への加害の場」ととらえることは、史実に反することであり、何らかのイデオロギーが先行しているということになりかねない。

ここを韓国の学生が訪れて慰霊の祈りを捧げたりすることもあるそうだが、そういう場所じゃないだろ、というような話っぷりで、わたしとしては非常に共感した。

むしろ、わたしには松永さんが日本による加害事実を人々に直視させまい直視させまいとしているように見えてしまう。日本人の労働者もあっただろうし、彼らと朝鮮人との暖かい交流もあっただろうが、それもアリ、これもアリ、というだけの当たり前の話である。なぜ加害の場ととらえることが史実に反することになるのか、なぜ韓国人が慰霊の訪問をする場所であってはならぬのか、まるで不可解である。松永さんはなぜそうした見方をナシ(「反対だ」とさえ明言している)としたのだろう?

逆に、土屋先生の今日の案内は、非常にうまくバランスを取っていたと思う。自分には非常に受け入れやすいスタンスだった

土屋さんが実際にどういうスタンスを取っておられたかこのエントリだけでは分からないが、少なくとも松永さんによる紹介では、日本の加害事実を重視し指摘するシーンは一切なく、むしろ加害事実を結果的に矮小化する効果をもつ傾向のものが目立っている。なにも両論併記せよなどと下らないことを言うつもりはさらさらないが、このエントリからは「うまくバランスを取っていた」様子はうかがいがたい。



この一連のエントリは遺構リポートとしてはよくまとまっているだけに、感想や主張が挿入された箇所については全体的に「あれあれ、松永さんどうしちゃったの?」という感じで、非常にもったいないものに思えた。