武成王廟 脇侍の変遷

よく簡略にまとめてるブログがあったので転載(←パクリ!パクリ!通報しますた!)。

http://blog.yam.com/ephesos2005/article/5908785
現在では「武聖」といえば関羽のことだが、史上初の「武聖」は太公望だった。太公望の祭りは明の時代に廃止され、民間でも岳飛が代表的な武神とされるようになり、清の時代、関羽信仰はますます高まってついに「武聖」の地位にのぼった。

太公望の廟が最初に作られたのは唐の時代である。開元十九年(731)に玄宗が国中に太公廟の建立を命じ、張良をご相伴に預からせた。粛宗の乾元元年(758)に時代が違うから相伴に預からせるのはおかしいということで、張良が神座から外された。

徳宗の上元元年(760)、太公望を武成王に封じて太公廟を武成王廟に昇格、孔子の文宣王廟と同格とした。文宣王廟に孔門十哲が脇侍とされているのをまねて、古今の名将十人を選んで武成王廟のご相伴とした。ご相伴に預かったのは左側に白起、韓信諸葛亮、李靖、李勣、右側に張良、田穣苴、孫武呉起楽毅である。

徳宗の建中三年(782)、文宣王廟の七十二賢になぞらえて七十二名将を武成王廟のご相伴とした。ご相伴に預かったのは孫臏、范蠡、廉頗、管仲、田単、趙奢、李牧、王翦、曹参、彭越、周勃、周亜夫、霍去病、衛青、趙充国、李広、鄧禹、呉漢、馮異、耿弇、寇恂、賈復、馬援、段熲、鄧艾、張遼皇甫嵩関羽張飛周瑜呂蒙陸抗陸遜、羊祜、杜預、王濬、陶侃、謝玄、王猛、慕容恪、檀道済、王鎮悪、長孫嵩、慕容紹宗、斛律光、王僧弁、宇文憲、于謹、韋孝寛、呉明徹、楊素、賀若弼、韓擒虎、史万歳、李孝恭、尉遅恭(尉遅敬徳)、蘇定方、裴行倹、王孝傑、張仁愿(張仁亶)、王晙、郭元振、李光弼、郭子儀の六十四人。七十二人には届かなかった。

宋の乾徳元年(963)、太祖の趙匡胤が武成王廟に参拝したおり、白起を指して「ちっとも武勇がないのに、ここで相伴に預かってるのはどういうことだ」と神座から外させた。呉起が十哲から外されて七十二賢に落とされ、孫臏、廉頗、韓信、彭越、周亜夫、段熲、鄧艾、陶侃、関羽張飛、杜預、慕容紹宗、王僧弁、呉明徹、楊素、賀若弼、史万歳、李光弼、王孝傑、張仁愿、郭元振らは七十二賢からも外された。管仲と郭子儀が十哲に昇格し、灌嬰、耿純、王霸、祭遵、班超、王渾、周訪、沈慶之、李崇、傅永、段韶、李弼、秦瓊、張公謹、唐休璟、渾瑊、裴度、李光顔、李愬、鄭畋、葛従周、周徳威、符存審が七十二賢に入れられた。

宋の徽宗の宣和五年(1123)、相伴衆に移動があり、太公望と一対一で張良が相伴することになり、管仲孫武楽毅諸葛亮、李勣が西向き、田穣苴、范蠡韓信、李靖、郭子儀が東向きにならんだ。東の廂房に白起、孫臏、廉頗、李牧、曹参、周勃、李広、霍去病、鄧禹、馮異、呉漢、馬援、皇甫嵩、鄧艾、張飛呂蒙陸抗、杜預、陶侃、慕容恪、宇文憲、韋孝寛、楊素、賀若弼、李孝恭、蘇定方、王孝傑、王晙、李光弼、西の廂房に呉起、田単、趙奢、王翦、彭越、周亜夫、衛青、趙充国、寇恂、賈復、耿弇、段熲、張遼関羽周瑜陸遜、羊祜、王濬、謝玄、王猛、王鎮悪、斛律光、王僧弁、于謹、呉明徹、韓擒虎、史万歳、尉遅敬徳、裴行倹、張仁亶、郭元振、李晟がならんだ。だいたいは唐の時代に選ばれた人物に戻されている。

淳熙四年(1176)、李晟の唐朝再興が認められて正殿(十哲)に追加され、かわりに武則天を皇后にして唐朝を滅ぼしかけた李勣が廂房(七十二賢)に下ろされ、曹彬が(七十二賢に)合祀された。

金の章宗の泰和七年(1207)、把粘罕(宗翰)を張良とともに太公望に同座させ、謀良虎(宗雄)、斡魯補(宗望)、兀朮(宗弼)を正殿に追加した。韓信らを正殿から廂房に下ろし、王猛、慕容恪といった二十人あまりを七十二賢から外し、かわりに金朝の領斜也(杲)らを入れた。

元の時代には祭りの方法も粗略になり、明の太祖の洪武二十一年(1388)、太公望を(君主の位置から下げて)名臣として扱うことにして武成王廟の祭りを廃止した。

司馬光の批判

司馬光が武成王廟の扱いを批判している。

http://www2.ktarn.or.jp/~habuku/gensyuu.htm
天地を網羅するのを「文」と言い、禍乱を鎮定するのを「武」と言う。いにしえから、この二つを兼ね備えずに「聖人」と呼ばれた者はいなかった。だから、黄帝、堯、舜、禹、湯、文、武、伊尹、周公には征伐の功績があったし、孔子は実戦こそしなかったが、莱夷の兵を退却させ、将軍に費人を撃退させ、言った。「我は戦えば勝った。」どうして孔子が文の専門家で、太公望が武の専門家だとゆうことがあろうか?孔子が学者として祀られているのは、礼の先聖先師だったからだ。人間が生まれて以来、孔子ほど素晴らしい人は未だかつて居なかった。どうして太公望などと比べられようか!
 昔は、出兵となれば、士へ車甲を教えるよう大司徒に命じたり、御前試合を行い作戦を決定し戦果を報告するなどのことは、全て学校で行った。その理由は、礼義を先にして勇力を後にしたかったからである。
 君子に勇気だけあって義がなければ、乱を起こす。小人に勇気だけあって義がなければ、盗賊となる。もしも勇力だけを訓練して礼義を教えこまなければ、何をしでかしてしまうのか!孫、呉以降、皆、勇力を戦わせ、騙し合った。彼等を聖人と数えて「武」と言うなど、役者不足も甚だしい!それを強いて十哲になぞらえ、後世の学者達の師匠とした。もしも太公望に魂があるならば、孔子と同じように祀られることを、必ずや羞じるだろう。