光武帝紀26 「諸方鎮撫」
夏四月、呉漢*1は五校*2賊を攻撃、追いかけて東郡*3・平原*4まで行き、さらに撃破した。
鬲*5県の五つの氏族が反乱を起こして守長*6を追放した。諸将が「朝から鬲を攻撃すれば、暮れには陥落させられますよ」と言うので、呉漢は腹を立てて、「鬲の城下へ行くものは斬る。鬲を反乱に追いやったのは守長の責任なのだ」と言い、檄文*7を回して、守長を逮捕して斬首せよと郡牧*8に伝えた。諸将はみな「五家を撃たず、かえって守長を斬るおつもりか?」と耳打ちしあった。
呉漢はそこで五家へ使者をやり、「守長は不届きにも五家の財産を奪いとり、まるで盗賊とかわりなかった。今はもう逮捕して斬首してある」と伝えさせたので、五家は大喜びして、連れだって帰服した。諸将は言いあった。「戦わずして他人の城を下すとは、凡人の及ぶところではござらんな。」
あるとき、賊軍が夜襲をかけてきたため、呉漢の軍隊が恐慌状態に陥ったことがあった。呉漢は寝そべったままびくとも動かなかったので、兵士たちは呉漢の様子を聞いて、みなで持ち場に戻った。そこで呉漢は精鋭をえりすぐり、夜中に攻撃をかけて賊軍を大破した。
そのころ、泰山*9の豪傑どもが張歩*10と連合していたので、呉漢は「陳俊*11でなければ泰山を鎮めることはできません」と劉秀*12に言上した。そこで陳俊は泰山太守*13・行大将軍事*14とされた。それを聞いて、張歩が軍隊を嬴*15の城下へ差しむけて陳俊を出迎えさせたが、陳俊はそれを攻撃して大いに打ちやぶった。そのまま各地の県を攻めくだし、とうとう泰山を平定してしまった。
五月、劉秀は盧奴*16へ行幸した。劉秀はもともと彭寵*17を征討するつもりであったが、盧奴まで来たとき、そこで引きかえした。諸将は呉漢に尋ねた。「まだ敵軍を破ってもいないのに陛下はお引きあげになるという。なぜだろうか?」呉漢は答えた。「陛下は兵法に通じておられ、撤退なさるのにも必ず理由があるはずだ。」劉秀は諸将に布告した。「盗賊どもが魏郡*18に出現して我々の背後を脅かしておる。それゆえ引きあげるのだ。」
六月、劉秀は譙*19へ行幸した。王霸*20・馬武*21が垂恵*22を攻撃すると、蘇茂*23が軍隊を連れて救援した。馬武はこれと戦って勝つことができず、王霸に救援を頼みいれた。王霸は陣営を閉ざして出陣しようとしなかったので、軍役人たちが反対意見を述べた。王霸は言った。「賊軍は精鋭であり人数も多い。わが兵士どもは恐怖心を抱いており、しかも馬武は負け戦となった。これは敗北への道である。ここで固く閉ざして救援しないふりを見せつければ、馬武の兵士どもは追いつめられ、その戦意は倍増するであろう。賊軍は疲労しておるゆえ、わしが精鋭を率いて奴らのほころびを突けば、そこで初めて打ちやぶることができるのだ。」
賊徒どもは案の定、盛大に繰りだしてきた。合戦がしばらく続いたのち、王霸が精鋭の騎兵隊を出して背後を襲わせると、賊軍は壊滅して逃げさった。
蘇茂がふたたび戦いを要求してくると、軍役人たちはみな「賊軍はもうぼろぼろですから、いまなら簡単に撃破できるでしょう」と言った。王霸は言った。「そうではない。蘇茂は遠路はるばる救援に来ており、食糧が不足しているのに駐留が長引いておる。それゆえ戦いを挑んできて完勝を狙っているのだ。いまは陣営を閉ざして兵士を休ませよう。さすれば無傷の勝利が得られる。いわゆる戦わずして兵をくじくというもので、善策のなかの善策である。」
かくて陣門を閉ざして守りを固め、役人や兵士を手厚くねぎらった。城内(の賊軍)はたびたび繰りだしてきて王霸を挑発したが、王霸は動かず、蘇茂はけっきょく軍隊を連れて立ちさった。
秋八月、劉秀は寿春*24へ行幸した。馬武・劉隆*25は李憲*26を舒*27で包囲した。
彭寵が薊*28を包囲すると、朱浮*29は守りきることができず、ただ一騎にて京師*30に逃げもどってきた。尚書令*31の侯霸*32が上奏した。「朱浮は彭寵の罪をでっちあげて幽州*33をめちゃくちゃにし、節義を守って国難のために死ぬこともできず、彭寵と事をかまえるなど、罪は死刑に値します。」劉秀はかれを赦免した。
冬十月、劉秀は宛*34へ行幸した。朱祜*35・耿植*36が秦豊*37を包囲し、岑彭*38・傅俊*39が夷陵*40の田戎*41を攻撃した。田戎は潰走して蜀*42へ逃げこんだ。岑彭は積弩将軍*43傅俊を江南*44へ、偏将軍*45房兖*46を交州*47へ差しむけ、あまねく詔勅を行きわたらせて国家の威信恩徳について宣布した。こうして更始帝*48の任用していた交州牧*49鄧譲*50・蒼梧*51太守杜穆*52・交趾*53太守錫光*54らは、みな上奏して江南の郡県を献上したり、あるいは使者を派遣したりした。
十二月、劉秀は黎丘*55へ行幸して、秦豊に詔勅を下したが、秦豊は出てきて罵詈雑言をした。朱祜らがこれを厳しく攻めたてると、秦豊が妻子を連れて降服してきたので、朱祜は檻車*56で洛陽*57へ護送した。
大司馬*58の呉漢が朱祜を弾劾した。「秦豊は狡猾であり長年にわたり固守して参りました。陛下がじきじきに山河をお越えになり、はるばると黎丘へお運びになり、日月のごとき信義をお示しになりました。秦豊の非道ぶりは天下に知られており、誅伐して百姓への慰謝にかえるべきところ、朱祜はただちに斬首して四方に見せしめとせず、勅命に反して秦豊の降服を受けいれました。将帥の任務にふさわしくなく、大いなる不敬でございます。」劉秀は秦豊を処刑するだけとし、朱祜の罪は問わなかった。
*1:ごかん。二十八将の一人。
*2:ごこう。盗賊集団の一つ。
*3:とうぐん。郡名。
*4:へいげん。国名。
*5:れき。県名。
*6:しゅちょう。郡の長官・太守(たいしゅ)と県の長官・長(ちょう)のこと。
*7:げきぶん。回し文。
*8:ぐんぼく。郡と州。
*9:たいざん。郡名。
*10:ちょうほ。群雄の一人。
*11:ちんしゅん。二十八将の一人。
*13:たいしゅ。官名。郡の長官。
*14:こうだいしょうぐんじ。大将軍(だいしょうぐん)としての職務を代行するの意。
*15:えい。県名。
*16:ろど。県名。
*17:ほうちょう。群雄の一人。
*18:ぎぐん。郡名。
*19:しょう。県名。
*20:おうは。二十八将の一人。
*21:ばぶ。二十八将の一人。
*22:すいけい。集落名。
*23:そぼう。
*24:じゅしゅん。県名。
*25:りゅうりゅう。二十八将の一人。
*26:りけん。群雄の一人。
*27:じょ。県名。
*28:けい。県名。
*29:しゅふ。劉秀の将。
*30:みやこ。
*31:しょうしょれい。官名。書記長。
*32:こうは。
*33:ゆうしゅう。州名。
*34:えん。県名。
*35:しゅこ。二十八将の一人。原文に「朱祐」(しゅゆう)とあるのは、のちの皇帝・劉祜(りゅうこ)の名を避けたもの。
*36:こうしょく。
*37:しんほう。群雄の一人。
*38:しんぽう。二十八将の一人。
*39:ふしゅん。二十八将の一人。
*40:いりょう。県名。
*41:でんじゅう。群雄の一人。
*42:しょく。四川地方。
*43:せきどしょうぐん。官名。積弩は「弩(いしゆみ)を集積する」の意。
*44:こうなん。長江(ちょうこう)の南岸地域。
*45:へんしょうぐん。官名。
*46:ぼうえん。『後漢書』では「屈充」(くつじゅう)とある。
*47:こうしゅう。州名。南海地方。
*48:こうしてい。劉玄(りゅうげん)のこと。
*49:ぼく。官名。州の長官。
*50:とうじょう。
*51:そうご。郡名。
*52:とぼく。
*53:こうし。郡名。
*54:せっこう。
*55:れいきゅう。地名。
*56:かんしゃ。檻の付いた車。
*57:らくよう。県名。劉秀が都とした地。
*58:だいしば。官名。三公(さんこう)の一つ。軍事担当の大大臣。