曹洪と曹仁 (2012/1/1 3:17)

曹洪がいつも小物扱いされてて萎える。


武帝時代の後半はたしかに曹仁の活躍が大きかった。しかし前半は曹洪のほうが存在感が重かった。というのも、曹丕が借財を申しいれるほど曹洪の家は裕福だったから、曹操の挙兵は、かれの財力あればこそ可能なのだった。徐栄に敗れたあと募兵をかけて勢力を恢復したのも、すべて曹洪の力である。

曹仁曹洪
190豪傑たちが一斉蜂起したとき、曹仁もまた密かに若者たちと結んで千人あまりを手に入れ、淮水・泗水の流域を駆けずりまわった。*1(豪傑並起,仁亦陰結少年,得千餘人,周旋淮﹑泗之間。
太祖に従って別部司馬となり、厲鋒校尉を兼務した。(從太祖為別部司馬,行厲鋒校尉。)
太祖が義兵を起こして董卓を討伐したとき、滎陽にいたって董卓の部将徐栄に敗北した。太祖は馬を失ったが、曹洪が馬を太祖に授けた。帰還して譙に逃れた。(太祖起義兵討董卓,至滎陽,為卓將徐榮所敗。太祖失馬,洪以馬授太祖。還奔譙。)
揚州刺史陳溫がかねて曹洪と親しかったので、曹洪は千人あまりの家兵を連れて陳溫のもとで募兵し、二千人の廬江の武装兵を手に入れた。東行して丹楊でまた数千人を手に入れ、龍亢で太祖に合流した。*2(揚州刺史陳溫素與洪善,洪將家兵千餘人,就溫募兵,得廬江上甲二千人,東至丹楊復得數千人,與太祖會龍亢。)
193太祖が袁術を打ち破ったとき、曹仁の斬首捕縛した者が非常に多かった。(太祖之破袁術,仁所斬獲頗多。)
徐州征討に従軍したとき、曹仁はつねに騎兵を監督して軍の先鋒となった。別働隊として陶謙の部将呂由を攻撃して打ち破り、引き返して彭城で大軍に合流し、陶謙の軍隊を大破した。(從征徐州,仁常督騎,為軍前鋒。別攻陶謙將呂由,破之,還與大軍合彭城,大破謙軍。)
194費、華、即墨、開陽の攻撃に従軍し、陶謙が別働隊を遣して諸県を救援したが、曹仁は騎兵でもってそれらを撃破した。(從攻費﹑華﹑即墨﹑開陽,陶謙遣別將救諸縣,仁以騎撃破之。)
太祖が呂布を征討したとき、曹仁は別働隊として句陽を攻めて落とし、呂布の部将劉何を生け捕りにした。(太祖征呂布,仁別攻句陽,拔之,生獲布將劉何。)
曹洪は兵隊を率いて先鋒を務め、まず東平の范を占拠し、食糧を集めて軍に供給した。(洪將兵在前,先據東平范,聚糧穀以繼軍。)
太祖が濮陽において張邈、呂布を討伐すると、呂布は敗走した。(曹洪は)そのまま東阿を占拠し、転戦して済陰、山陽、中牟、陽武、京、密など十あまりの県を攻撃して、すべて陥落させた。*3(太祖討張邈﹑呂布於濮陽,布破走,遂據東阿,轉撃濟陰﹑山陽﹑中牟﹑陽武﹑京﹑密十餘縣,皆拔之。)
前後の功績により鷹揚校尉を拝命し、揚武中郎将に昇進した。(以前後功拜鷹揚校尉,遷揚武中郎將。)
196太祖は黄巾党を平定し、天子を迎えて許に遷都させた。曹仁はしばしば功績を立てたので、広陽太守を拝命したが、太祖はその勇略を認めていたので郡には行かせず、議郎として騎兵を監督させた。(太祖平黄巾,迎天子都許,仁數有功,拜廣陽太守。太祖器其勇略,不使之郡,以議郎督騎。)曹洪を諫議大夫に任命した。(拜洪諫議大夫。)
197太祖が張繡を征討したときは、曹仁は別働隊として周辺の県を従え、男女三千人あまりを生け捕りにした。曹仁将兵を率い励まして大いに奮闘し、ついに張繡を打ち破った。(太祖征張繡,仁別徇旁縣,虜其男女三千餘人。仁率厲將士甚奮,遂破繡。)別働隊として劉表を征討し、舞陽、陰、葉、堵陽、博望において劉表の別働隊の部将を打ち破り、功績を立てて厲鋒将軍に昇進、国明亭侯に封ぜられた。*4(別征劉表,破表別將於舞陽﹑陰﹑葉﹑堵陽﹑博望,有功,遷厲鋒將軍,封國明亭侯。)
198武帝紀】春二月、張楊の部将楊醜が張楊を殺し、眭固がまた楊醜を殺した。夏四月、軍隊を黄河の手前まで進めて、史渙と曹仁黄河を渡らせ、これを攻撃した。(春二月,張楊將楊醜殺楊,眭固又殺醜。夏四月,進軍臨河,使史渙﹑曹仁渡河撃之。)
200太祖が官渡において久しく袁紹と対峙していたとき、袁紹劉備を派遣して濦彊らの諸県を下した。太祖は(曹仁に)騎兵を率いて劉備を攻撃させ、これを敗走させた。曹仁は離反した諸県をことごとく回復して帰還した。(太祖與袁紹久相持於官渡,紹遣劉備徇濦彊諸縣。太祖使將騎撃備,破走之,仁盡復收諸叛縣而還。)
袁紹の別働隊の部将韓荀が西道を遮断すると、曹仁は雞洛山において韓荀を攻撃し、これを大破した。(紹遣別將韓荀鈔斷西道,仁撃荀於雞洛山,大破之。)
ふたたび史渙らとともに袁紹の輸送車を襲い、その食糧を焼き払った。(復與史渙等鈔紹運車,燒其糧穀。)
徐晃傳】徐晃曹洪とともに濦彊の賊徒祝臂を攻撃し、これを打ち破った。*5徐晃曹洪撃濦彊賊祝臂,破之。)
武帝紀】袁紹は最初、公が淳于瓊を攻撃したと聞き、張郃と高覧に曹洪を攻撃させた。張郃らは淳于瓊が敗れたと聞いて、そのまま投降した。袁紹軍は大敗した。(袁紹初聞公之撃淳于瓊,乃使張郃﹑高覽攻曹洪。郃等聞瓊破,遂來降。紹衆大潰。)
204武帝紀】夏四月、曹洪を残して鄴を攻撃させ、公はみずから尹楷を攻撃し、これを打ち破って帰還した。(夏四月,留曹洪攻鄴,公自將撃尹楷,破之而還。)
206壺関の包囲に従軍し、太祖は曹仁の進言に従って城を下した。このとき曹仁の前後の功績を考課して、都亭侯に封じた。(從圍壺關,太祖從仁言,城降。於是錄仁前後功,封都亭侯。)
?*6しばしば征伐に従軍し、都護将軍を拝命した。(累從征伐,拜都護將軍。)
208荊州の平定に従軍し、曹仁を行征南将軍として江陵に駐留させた。周瑜が数万人の軍勢を率いて攻めてきたとき、曹仁は部曲将牛金に挑戦させたが、牛金はそのまま包囲されてしまった。曹仁は城を出ると賊軍の包囲網に突入し、牛金らはようやく解放された。賊軍はそこで撤退した。移封されて安平亭侯に封ぜられた。(從平荊州,以仁行征南将軍,留屯江陵。周瑜將數萬衆來攻,仁遣部曲將牛金與挑戰,金遂為所圍。仁出城,衝入賊圍,金等乃得解。賊衆乃退。轉封安平亭侯。)
211太祖が馬超を討伐したとき、曹仁を行安西将軍として諸将を都督して潼関で対峙させ、渭水の南岸で馬超を撃破した。(太祖討馬超,以仁行安西将軍,督諸將拒潼關,破超渭南。)
蘇伯・田銀が反乱すると、曹仁を行驍騎将軍として七軍を都督させ、田銀らを討伐して打ち破った。(蘇伯﹑田銀反,以仁行驍騎將軍,都督七軍討銀等,破之。)
?*7ふたたび曹仁を行征南将軍として仮節とし、樊城に駐屯して荊州を守らせた。(復以仁行征南将軍,仮節,屯樊,鎭荊州。)
217武帝紀】劉備張飛馬超呉蘭らを下弁に進駐させたので、曹洪を派遣して防がせた。(劉備張飛馬超﹑吳蘭等屯下辯;遣曹洪拒之。)
218侯音が宛城をこぞって反乱したので、曹仁は諸郡を率いて侯音を攻め破り、その首を斬り、樊城に帰還した。すぐさま征南将軍を拝命した。(侯音以宛叛,仁率諸郡攻破音,斬其首,還屯樊,即拜征南將軍。)武帝紀】曹洪呉蘭を打ち破って、その部将任夔らを斬った。(曹洪破吳蘭,斬其將任夔等。)
219関羽が樊城を攻撃したとき、于禁らの七軍はみな水没したため、于禁関羽に投降した。曹仁は数千人の兵馬で城を守り、徐晃が救援に駆けつけた。徐晃が外から関羽を攻撃したので、曹仁は包囲を崩して出ることができ、関羽は撤退した。(關羽攻樊,于禁等七軍皆沒,禁降羽。仁人馬數千人守城,徐晃救至,晃從外撃羽,仁得潰圍出,羽退走。)
220文帝が王位に就くと、曹仁を車騎将軍、都督荊・揚・益州諸軍事に任命し、陳侯に移封して二千戸を加増し、以前と合わせて三千五百戸とした。(文帝即王位,拜仁車騎將軍,都督荊﹑揚﹑益諸軍事,進封陳侯,增邑二千,幷前三千五百戸。)
のちに召し返されて宛城に駐屯した。*8(後召還屯宛。)
衛将軍となり、驃騎将軍に昇進して野王侯に移封され、千戸を加増して合わせて二千一百戸となり、特進の地位を与えられた。(為衞將軍,遷驃騎將軍,進封野王侯,益邑千戸,幷前二千一百戸,位特進。)
のちに移封されて都陽侯となる。*9(後徙封都陽侯。)
曹洪の家の食客が法律に違反したため、投獄されて死罪に相当したが、辛うじて官職の罷免、爵位と土地の召し上げで済んだ。(洪以舍客犯法,下獄當死,乃得免官削爵土。)
221孫権が部将陳邵に襄陽を占拠させたので、詔勅により曹仁がこれを討伐した。曹仁徐晃とともに陳邵を攻めて破り、そのまま襄陽に入城した。将軍高遷らに漢水の南岸で帰属した住民を北岸に移住させた。文帝は使者を遣してすぐさま曹仁を大将軍に任命した。(孫權遣將陳邵據襄陽,詔仁討之。仁與徐晃攻破邵,遂入襄陽,使將軍高遷等徙漢南附化民於漢北,文帝遣使即拜仁大將軍。)
さらに詔勅により曹仁を臨潁に移駐して大司馬に昇進させ、ふたたび諸軍を都督して烏江を占拠させ、引き返して合肥に駐留させた。(又詔仁移屯臨潁,遷大司馬,復督諸軍據烏江,還屯合肥。)
222【孫權傳】秋九月、魏は曹休張遼臧霸に命じて洞口へ進出させ、曹仁に濡須へ進出させ、曹真・夏侯尚・張郃徐晃に南郡を包囲させた。(秋九月,魏乃命曹休張遼臧霸出洞口,曹仁出濡須,曹真﹑夏侯尚﹑張郃徐晃圍南郡。)
223【孫權傳】春三月、曹仁は将軍常雕らに五千人の兵士を率いて油船に乗せ、明け方に濡須の中洲に渡らせた。同月、魏軍はすべて撤退した。(春三月,曹仁遣將軍常彫等,以兵五千,乘油船,晨渡濡須中州。是月,魏軍皆退。)

逝去して、忠侯と諡された。(薨,諡曰忠侯。)
226明帝が即位すると後将軍を拝命し、改めて楽城侯に封ぜられ、食邑は一千戸となり、特進の地位を与えられた。さらに驃騎将軍を拝命した。(明帝即位,拜後將軍,更封樂城侯,邑千戸,位特進,復拜驃騎將軍。)
232逝去して、恭侯と諡された。(薨,諡曰恭侯。)


滎陽で曹操を救ったのも曹洪ならば、その後に募兵を行ったのも曹洪であり、曹操軍の実体はほぼ曹洪が形作っていたと言って過言でない。曹仁は別部司馬であり、これは官職のうえで曹操に完全従属していたことを意味する。だから曹洪のように単独で別行動を取ることは少なく、曹操軍の本陣を固める一部将としての活躍しか見られないのだ。行厲鋒校尉というのは自官であって、これ自体はさほど重んずる価値はない。しかも曹仁はその後208年に行征南将軍になるまでずっと将軍職を与えられていないのだ。一方、曹洪は鷹揚校尉、揚武中郎将、厲鋒将軍、都護将軍と、とんとん拍子で出世していく。


曹仁はしばらく雌伏のときが続き、献帝を奉迎した時点で行厲鋒校尉の自官は失効し、幽州の広陽太守とされたが任地が遠いため議郎として朝廷に留め置かれた。それから騎兵を率いて各地へ転戦するが将軍職への任官はなく、ようやくそれを得たのが208年の行征南将軍職であった。それから行安西将軍をへて行驍騎将軍となり、曹操に九錫の受領を勧める勧進表では中護軍曹洪(都護将軍の誤り)、中領軍韓浩に続いて、ようやく行驍騎将軍曹仁として名が見える。曹仁の席次はこの時点で、曹洪より二つ下なのである。


曹仁曹洪に追いつき、追いこすのはふたたび行征南将軍となり樊城に駐屯してからのことである。侯音の反乱を鎮めて真の征南将軍となり、関羽を防ぎ、文帝曹丕が魏王になると車騎将軍に昇進している。このとき曹洪も昇進したが位階は一つ下の衛将軍である。ここで初めて逆転が起こっている。その理由はなんだろうか? 曹洪が吝嗇のため曹丕の恨みを買ったからであろうか。おそらくそうではあるまい。夏侯惇は漢朝の将軍であることを嫌って魏国の将軍に異動することを要求したが、これと同様におそらく両人の立場にも漢魏の交代期において微妙な影響があったのではないだろうか。その後、曹仁が大将軍、大司馬へと昇進していくのに対し、曹洪が一時は免官されて停滞しているのを見ると、それが決して偶然のようには思えない。

追加 (8/24 3:43)

本伝以外からも戦歴を抽出し、出典を隅付括弧で表した。

とくに注目すべき点として、官渡戦と鄴攻略において曹操に代わり本営の指揮を執ったことが挙げられる。

追加(2012/01/01 3:17)

日本語訳を追加した。

*1:武帝紀」に曹操が揚州での募兵に失敗したあと建平・銍で千人あまりを得たとある。これは曹仁の手兵のことであろう。曹仁が別部司馬に任じられたのはこの千人を動かすためである。(8/24 3:43)

*2:武帝紀」には曹操が揚州で募兵して丹楊その他で四千人あまりを得たとある。曹洪の成果と比較されたい。(8/24 3:43)

*3:済陰・山陽は郡国名であり、中牟以下は河南に属す県名であるから、ここに時間の断絶があり、前者は195年の呂布戦、後者は翌196年の上洛戦を指していると思われる。

*4:武帝紀」197年に張繡が背いたので曹洪を派遣したが勝てず、曹洪は葉に駐屯したとある。「舞陽・陰・葉…」とあるのは「舞陰・葉…」の誤り。

*5:曹仁伝」では隠彊を伐ったのは曹仁のこととされ、徐晃は眭固征討から官渡戦まで曹仁・史渙と行動をともにすることが多いらしく、ここで曹洪とあるのは曹仁の誤りかもしれない。(8/24 3:43)

*6:「王粲伝」に阮瑀は都護曹洪に招聘されたが従わず、司空軍謀祭酒になったとあり、曹操が208年6月に丞相になる以前のことである。

*7:武帝紀」213年5月の注に引用する群臣諸将の勧進表に「行驍騎将軍・安平亭侯の曹仁」とあり、それ以降のことである。また勧進表には曹仁の二つ前に「中護軍・国明亭侯の曹洪」とあり(中護軍は都護の誤りだろう)、両人の位階の差が分かる。

*8:『晋書』宣帝紀によると樊城の放棄は曹丕が受禅する以前のこと。

*9:移封の時期は不明。以下の免官も同じ。