景丹伝

後漢書』景丹伝を訳してみた。絨毯がどうのこうのって部分が難しくてよく分かんないよ。

景丹《惠棟曰:孫愐云:景姓,齊景公之後,後漢有景丹.》字孫卿,馮翊櫟陽人也.少學長安.王莽時舉四科:[一]丹以言語為固德侯相,有幹事稱,遷朔調連率副貳.[二]

[一] 東觀記曰:「王莽時舉有德行﹑能言語﹑通政事﹑明文學之士.」

[二] 朔調,上谷也.副貳,屬令也.


更始立,遣使者徇上谷,丹與連率耿況降,復為上谷長史.王郎起,丹與況共謀拒之.況使丹與子弇及寇恂等將兵南歸世祖,世祖引見丹等,笑曰:「邯鄲將帥數言我發漁陽﹑上谷兵,吾聊應言然,[一]何意二郡良為吾來![二]方與士大夫共此功名耳.」拜丹為偏將軍,號奉義侯.從擊王郎將兒宏等於南䜌[三]郎兵迎戰,漢軍退卻,[四]丹等縱突騎擊,大破之,追奔十餘里,死傷者從橫.丹還,世祖謂曰:「吾聞突騎天下精兵,今乃見其戰,樂可言邪?」遂從征河北.

[一] 王郎將帥數云欲發二郡兵以拒光武,時光武聊應然之,猶今兩軍遙相戲弄也.《顧炎武曰:謂邯鄲將帥有此言,我亦聊以此言應之,不能必二郡之果來也.本文自明,注乃謂王郎欲發之,謬矣.王補曰:通鑑無然字,多出我亦發之句,蓋從袁紀.》

[二] 東觀記曰:「上在廣阿,聞外有大兵自來,登城,勒兵在西門樓.上問:『何等兵?』丹等對曰:『上谷﹑漁陽兵.』上曰:『為誰來乎?』對曰:『為劉公.』即請丹入,人人勞勉,恩意甚備.」《通鑑考異曰:袁紀作,良牧為吾來,宜從丹傳.惠棟曰:東觀記云:上勞勉,丹出至城外兵所,勒馬坐鞍置旃毾〓上,設酒肉.先謙曰:官本注,上谷上曰作言,自來二字互倒.當作「聞大兵來,上自登城.」於文始順.勒馬坐鞍,置旃毾〓上,御覽作,下馬坐鞍旃毾〓上,為合.》

[三] 兒音五兮反.

[四] 續漢書曰「南䜌賊迎擊上營,得上鼓車輜重數乘」也.


世祖即位,以讖文用平狄將軍孫咸行大司馬,衆咸不悅.詔舉可為大司馬者,[一]羣臣所推唯吳漢及丹.帝曰:「景將軍北州大將,是其人也.然吳將軍有建大策之勳,[二]又誅苗幽州﹑謝尚書,其功大.[三]舊制驃騎將軍官與大司馬相兼也.」[四]乃以吳漢為大司馬,而拜丹為驃騎大將軍.《惠棟曰:續志,驃騎大將軍位公下.》

[一] 東觀記曰載讖文曰:「孫咸征狄」也.《惠棟曰:東觀記,今以平狄將軍孫咸行大司馬事,咸以武名,官以應圖讖.袁宏紀作,孫臧.》

[二] 謂發漁陽兵也.

[三] 苗曾,謝躬.

[四] 前書武帝置大司馬,號大將軍﹑驃騎將軍也.


建武二年,定封丹櫟陽侯.帝謂丹曰:「今關東故王國,雖數縣,不過櫟陽萬戶邑.《先謙曰:言櫟陽殷富勝它縣.》夫『富貴不歸故鄉,如衣繡夜行』,故以封卿耳.」[一]丹頓首謝.秋,與吳漢﹑建威大將軍耿弇﹑建義大將軍朱祐﹑執金吾賈復﹑偏將軍馮異﹑強弩將軍陳俊﹑左曹王常﹑騎都尉臧宮等從擊破五校於羛陽,[二]降其衆五萬人.會陝賊蘇況攻破弘農,生獲郡守.丹時病,[三]帝以其舊將,欲令強起領郡事,乃夜召入,謂曰:「賊迫近京師,但得將軍威重,臥以鎮之足矣.」《沈欽韓曰:袁宏紀,上夜召丹以檄示之,曰:「弘農太守無任,為賊所害.今聞赤眉從西方來,恐蘇況舉郡以應之.弘農迫近京師,今將軍雖疾病,但臥而鎭之耳.」》丹不敢辭,乃力疾拜命,將營到郡,[四]十餘日薨.

[一] 前書武帝謂朱買臣之詞.《先謙曰:官本注詞作語.》

[二] 聚名也,解見光武紀.

[三] 東觀記曰:「丹從上至懷,病瘧,見上在前,瘧發寒慄.上笑曰:『聞壯士不病瘧,今漢大將軍反病瘧邪?』使小黃門扶起,賜醫藥.還歸洛陽,病遂加.」《沈欽韓曰:李石續博物志,瘧鬼不能病巨人,故曰:壯士不病瘧.》

[四] 續漢書曰「將營兵西到弘農」也.


子尚嗣,徙封余吾侯.[一]尚卒,子苞嗣.苞卒,子臨嗣,無子,國絕.永初七年,鄧太后紹封苞弟遽為監亭侯.

[一] 余吾,縣名,屬上黨,故城在今潞州屯留縣西北.《惠棟曰:案水經注,建武六年封.先謙曰:今潞安府屯留縣西.》


景丹は《恵棟は言う。孫愐の言うには景姓は斉の景公の末裔であり、後漢に景丹ありとのこと。》字を孫卿といい、馮翊郡の櫟陽の人である。若いころ長安へ遊学した。王莽時代には四科の選挙項目があったが、[一]景丹は言語科でもって固徳侯の相となり、事務をしきる才能があると称えられ、朔調連率の副貳へ昇進した。[二]

[一] 『東観記』に言う。「王莽時代の選挙項目は、有徳行・能言語・通政事・明文学の士であった。」

[二] 朔調とは上谷のことである。副貳は属令である。


更始帝は即位すると、使者をやって上谷を従わせた。景丹は連率耿況とともに投降し、ふたたび上谷長史となった。王郎が挙兵すると、景丹は耿況とともにこれを拒絶せんと共謀し、耿況は息子耿弇および寇恂らとともに景丹に兵士を率いさせ、南方の世祖に帰服させた。世祖は景丹らを引見すると、笑いながら言った。「邯鄲の将帥がたびたび『我らは漁陽・上谷の軍兵を動員したぞ』と言うので、わたしはとっさにその通りに答えたものだったが、[一]まさか両郡が本当にわたしのために来てくれるとは思わなかったよ![二]ならば士大夫とともにこの功名を共有するばかりだ。」景丹を偏将軍に任命し、奉義侯の称号を与えた。従軍して、王郎の部将児宏らを南䜌で攻撃した。[三]王郎軍の迎撃に漢軍は退却したが、[四]景丹らは突騎を放って攻撃をかけ、これを大いに打ちやぶった。追撃すること十里あまり、(王郎軍の)死傷者が折りかさなった。景丹が帰還すると、世祖は言った。「わたしは突騎が天下第一の精兵と聞いていたが、いまようやくその戦いぶりを見ることができた。言うべきことなどあろうか?」そのまま河北制圧に従軍した。

[一] 王郎の将帥がたびたび「二郡の軍兵を動員して光武を防ぎたいものだ」と言うので、そのつど光武がとっさに「その通りだな」と答えたのである。この両軍が遠くからふざけ合っていたのであろう。《顧炎武は言う。邯鄲の将帥がその言葉を言い、わが軍もまたとっさにその言葉で答え、両郡が(双方それぞれに)来てくれることは期待できないという意味である。本文から自明であり、王郎が動員したいと欲したと注釈が言っているのは、間違いである。王補は言う。『通鑑』に然(その通り)の字がなく、「わが軍もまた動員した」の句が多いのは、おそらく『袁紀』に拠っているのだろう。》

[二] 『東観記』に言う。「上は広阿にあって、城外に大軍がみずから到来したと聞くや、城郭をのぼり兵士を率いて西門の矢倉へ行った。上が訊ねた。『いずこの軍か?』景丹らが答えて曰った。『上谷・漁陽の軍です。』上が言った。『だれのために来たのか?』答えた。『劉公のためです。』すぐさま景丹を請じいれ、一人ひとりをねぎらったが、たいそう真心がこもっていた。」《『通鑑考異』は言う。『袁紀』は「牧が本当にわたしのために来てくれるとは」と作るが、「景丹伝」に従うべき。恵棟は言う。『東観記』の言うには、上がねぎらうと、景丹は退出して城外の兵士たちのところへ行き、馬を牽いて鞍に腰かけ、毛織りの絨毯の上に置いて、酒や肉を用意した。王先謙は言う。官本の注釈では上谷の手前の「曰」を「言」と作り、「自来」の二字が入れかわりになっている。「大軍が到来したと聞くや、上はみずから城郭をのぼった」と作るべきで、文章の始めからすると自然である。「馬を牽いて鞍に腰かけ、毛織りの絨毯の上に置いた」は、『御覧』が「馬をおりて鞍の毛織りの絨毯の上に腰かけた」と作るほうが合理的である。》

[三] 児の発音は五兮の反切。

[四] 『続漢書』に言う。「南䜌の賊軍が上の陣営を迎撃し、上の鼓車や輜重車の数乗を手に入れた。」


世祖は即位すると、予言書に従って平狄將軍孫咸を行大司馬に任用しようとしたが、人びとがみな満足しなかったので、詔勅により大司馬とすべき者を推挙させた。[一]群臣が推挙したのは、ただ呉漢と景丹だけであった。帝が言った。「景将軍は北方の大将であり、ふさわしい人材である。しかし呉将軍には偉大な計略を立てた勲功があり、[二]さらに苗幽州・謝尚書を誅殺し、その功績は多大である。[三]旧制では驃騎将軍は大司馬と相競うとのことである。」[四]そこで呉漢を大司馬とする一方、景丹を驃騎大将軍に任命した。《恵棟は言う。『続志』に驃騎大将軍の官位は公の下とある。》

[一] 『東観記』に言う、予言書を載せて言う。「孫咸が狄を征す。」《恵棟は言う。『東観記』には、いま平狄将軍孫咸に大司馬の職務を行わせ、孫咸の武名をもって官職を予言書に対応させたとある。『袁宏紀』では孫臧と作る。》

[二] 漁陽の軍兵を動員したことを言う。

[三] 苗曾、謝躬のことである。

[四] 前書に武帝が大司馬を置き、大将軍や驃騎将軍の称号としたとある。


建武二年、決定により景丹は櫟陽侯に封ぜられた。帝は景丹に言った。「いま関東の古い王国は数県あるとはいえ、櫟陽の一万戸を上回ることはない。《王先謙は言う。櫟陽の繁栄ぶりが他の県に勝ることを言う。》『富貴の身となり故郷に帰らぬことは、夜中に刺繍を着て行くようなものだ』という。だからあなたを封じたのだよ。」[一]景丹は頓首して感謝した。秋、呉漢・建威大将軍耿弇・建義大将軍朱祐・執金吾賈復・偏将軍馮異・強弩将軍陳俊・左曹王常・騎都尉臧宮らとともに従軍して、羛陽において五校を撃破し、[二]その軍勢の五万人を降服させた。そのころ陝の賊徒の蘇況が弘農を攻めやぶり、郡守を生け捕りにした。景丹はこのとき病気を患っていたが、[三]帝はかれが宿将であることから、むりに起こして郡の職務を仕切らせようと思い、夜中に召しよせて言った。「賊軍が京師の間近に迫っている。ただ将軍の威厳を借り、寝そべったまま睨みをきかせてくれれば充分だ。」《沈欽韓は言う。『袁宏紀』には、上は夜中に景丹を召しよせて檄文を見せ、「弘農太守の人選を誤り、賊徒に侵害されることになった。いま赤眉軍が西方より到来したと聞いているが、蘇況が郡をあげて呼応するのが心配だ。弘農は京師の間近に迫っている。いま将軍は病床の身ではあるが、ただ寝そべったまま睨みをきかせてくれ」と言ったとある。》景丹はあえて辞退することなく、そのまま病身を押して拝命した。陣営を率いて郡に到着したが、[四]十日あまりして逝去した。

[一] 『前書』の武帝が朱買臣に言った詞(ことば)。《王先謙は言う。官本の注釈では「詞」を「語」と作る。》

[二] 集落の名である。解釈は「光武紀」に見える。

[三] 『東観記』に言う。「景丹は上に随行して懐に到着したとき、瘧(おこり)にかかり、上に拝謁して進みでたとき、瘧の発作で悪寒に震えてしまった。上は笑いながら言った。『聞けば勇者は瘧にかからないとか。いま漢の大将軍たる者が、かえって瘧にかかるなどということがあるのかね?』小黄門に助け起こさせ、医薬を下賜した。洛陽に帰還すると、病状はますます重くなった。」《沈欽韓は言う。李石の『続博物志』に、瘧の鬼は巨人を病気にできないとある。だから「勇者は瘧にかからない」と言っているのである。》

[四] 『続漢書』に言う。「陣営の軍兵を率いて西進し、弘農に到着した。」


子の景尚が嗣いで余吾侯に移封された。[一]景尚が卒すると子の景苞が嗣いだ。景苞が卒すると子の景臨が嗣いだが、子がなかったため国は断絶した。永初七年、鄧太后は景苞の弟の景遽に国を継がせて監亭侯とした。

[一] 余吾は県名である。上党に属す。故城は現在の潞州屯留県の西北にある。《恵棟は言う。『水経注』を調べると建武六年に封ぜられたとある。王先謙は言う。現在の潞安府屯留県の西である。》