袁術の挙兵

後将軍号の来歴、袁紹との関係について。

蜀の劉備は入蜀以前からずっと左将軍の印綬を持ちつづけていた。この左将軍号は呂布を討った功績を認められ、呂布が帯びていた印綬を授かったものだ。呂布が平東将軍を経て左将軍を拝命したのは、元の左将軍である袁術を撃った功績からだ。袁術を左将軍に就けたのは李傕政権だが、それ以前、袁術は後将軍を号していた。この後将軍号はどこから来たのか。

袁術伝には「董卓が廃立しようと企てて袁術を後将軍としたが、袁術董卓の災禍を恐れて南陽に出奔した」とある。袁術はその後も後将軍号を帯びているので、この任命そのものは忌避していなかったということだろう。

もともと大将軍や車騎将軍、四方将軍などは格別の重みをもつ将軍号であり、外戚でもないかぎり、一般人が就任できるような容易い地位ではなかった。ただ、漢末の混乱期にはその原則も崩れつつあり、黄巾の鎮圧で名を挙げた皇甫嵩が車騎将軍に昇ったのち左将軍に復職し、また董卓も同時期に前将軍を拝命している。そして後将軍には、袁術の叔父袁隗がかつて太傅に昇る以前に在職していたことがあった。

董卓袁術を後将軍としたのは、この袁隗のゆかりを考慮したものであるが、それと同時に、少帝劉弁の閨房に袁氏の娘が入っていた可能性も考えられるだろう。そうでなければ、本来なら外戚クラスに与えられるはずの地位をどうして授かったのだろうか。袁紹に昇進の沙汰がなく、袁術だけに将軍号が与えられたのは、あるいは宦官誅滅を主導したのが袁紹よりは袁術のほうだったからなのかもしれない。いずれにせよ董卓は、袁紹ではなく袁術をこそ袁隗の後継者と目していたようなのである。

袁兄弟が挙兵したとき、袁紹が車騎将軍を自称したと史書はいうが、これは疑わしい。いざ董卓と戦わんというこの時分に、たとい自称とはいえ、すでに袁紹の官位を上まわる袁術に対して、さらに高位の将軍号を称し、わざわざ身内同士で地位を張りあうような真似をするとは思えない。曹操は「勃海に河内の軍勢を率いて孟津に臨ませ、袁将軍に南陽の軍勢を率いて丹析に進駐させる」と言っており、袁紹を「勃海」と呼び「車騎」とは呼んでいない。「袁将軍」といえばこれすなわち袁術のことなのだ。おそらく袁紹が車騎将軍を号したのは袁術との関係が決裂して以後のことであり、曹氏が僭号者袁術に従属した過去を隠蔽すべく史家が時系列を曲げているのである。袁紹は興平二年(195年)に長安に降り、車騎将軍の地位を下まわる右将軍に就任しているが(『後漢書』本伝)、この事実も『三国志』本伝では記されていない。車騎将軍の自官になんら実効性がなかったことを袁紹自身が認める形になっているからだろう。

袁術は初平四年(193年)、すでに左将軍を拝命しており、右将軍袁紹はその下風に屈している。それ以前、袁紹が侍御史に在職していたころ、尚書になった袁術の下働きになるのが気に食わず、退職したこともある(『太平御覧』に引く『英雄記』)。このように袁紹は、つねに袁術の下風に屈している。

そもそも挙兵自体が、袁紹の主導ではありえなかった。袁紹が挙兵を思い立ったのは、橋瑁らが三公に仮託した偽造文書を受け取ってからであり(『後漢書』本伝)、劉岱、橋瑁、張邈、張超、孔伷らによる初期の謀議(『三国志』臧洪伝)には加わっていない。袁紹は家族を人質として兖州刺史劉岱に預けており(『三国志』程昱伝)、実質的な盟主が劉岱であったと考えられるばかりか、劉岱が袁紹服従させていたことが見てとれる。のちに袁紹と公孫瓚が争ったとき、劉岱はどちらに味方すべきかを迷っており、袁紹はとうてい諸将に推戴されるほどの権威は持たなかったのである。

酸棗に集結した諸将には、曹操、張邈、劉岱、橋瑁、袁遺らがあったが、このうち明らかに袁紹に近かったと見られるのは袁遺だけであり、曹操の家族は曹操が京師を出奔したとき袁術から凶報を受けており(『三国志』卞后伝)、張邈は袁紹と仲違いして謀殺されかかったほか、のちに曹操に敗れて袁術を頼ろうとしており、劉岱は前述のとおりである。橋瑁は記録が少なくよく分からない。このほか袁術の尖兵となった長沙太守の孫堅があり、袁術南陽太守に推挙した荊州刺史の劉表もあり(『後漢書劉表伝)、冀州牧の韓馥は袁紹に追われたあと張邈のもとで袁術に手紙を送っており(『後漢書』五行志の注に引く『呉書』)、また長安献帝の方でも侍中の劉和を袁術のもとに送り、その父劉虞がこれに応じて騎兵数千を袁術のもとに送ろうとしており、董卓を殺して長安を落ちた呂布が最初に頼ったのが袁術であり、諸将間での袁術の影響力はなかなか軽視できないようなのである。

後将軍という高い地位に対応するように、袁術自身もまた強い権威を持っていたのだろうと窺われる。