袁術と『後漢紀』

三国志』や『後漢書』には書かれてないことでも、『後漢紀』にはあるのです。

後漢紀』興平二年
(原文)袁術自依據江淮,帶甲數萬,加累世公侯,天下豪傑無非故吏。
(訳文)袁術は長江淮水の領域を占拠して以来、武装兵は数万人にのぼり、加えて代々公侯を輩出しており、天下の豪傑のうち故吏でない者はなかった。

袁術が揚州を占拠して以降の勢力の盛んさを『三国志』『後漢書』ともに書いていない。この威勢の高さを記しているのは袁宏の『後漢紀』だけ。袁宏は、袁術に仕えた袁渙の子孫にあたる。父祖にだけ伝わる話もあっただろう。

後漢紀』建安四年
(原文)術始自以為有淮南之衆,料策之必與己同,及得其書,遂愁沮發疾。
(訳文)袁術は最初、自分が淮南の大軍を有しているので、孫策はきっと自分に同調してくれるだろうと思っていた。かれの手紙を受けとると、哀しみのあまり病気になった。

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