彭城相の徐庶

徐庶は彭城相を務めていたことがある。

『水経注』巻二十三
(原文)宣帝地節元年,更為彭城郡。王莽更之曰和樂郡也,徐州治。城內有漢司徒袁安、魏中郎將徐庶等數碑,竝列植于街右,咸曾為楚相也。
(訳文)宣帝の地節元年(前69年)、(楚国は)彭城郡と改められた。王莽はこれを和楽郡と改め、徐州の治府とした。城内には漢の司徒の袁安、魏の中郎将の徐庶ら、いくつかの碑があり、街路の右側にならび立っている。みなかつて楚相であった。

漢の彭城郡は魏の彭城国であるから、ここで楚相とするのは酈道元の誤りで、彭城相とすべきである。諸葛亮伝の注に引く『魏略』によると、徐庶は右中郎将、御史中丞を歴任したというが、彭城相を務めたとする記述はなく、ただ彭城に碑があるとだけ書かれている。右中郎将に在職中、これを兼務していたということだろう。