曹純の年齢がおかしい

『水経注』が曹騰やその一族の碑に言及していることはよく知られている。

『水経注』巻二十三
(原文)濄水又東,逕譙縣故城北。《春秋左傳・僖公二十三年》,楚成得臣帥師伐陳,遂取譙,城頓而還。是也。王莽之延成亭也。魏立譙郡,沇州治。沙水自南枝分,北逕譙城西,而北注濄。濄水四周城側,城南有曹嵩冢,冢北有碑,碑北有廟堂,餘基尚存,柱礎仍在。廟北有二石闕雙峙,高一丈六尺,榱櫨及柱,皆雕鏤雲矩,上罦罳已碎。闕北有圭碑,題云:《漢故中常侍長樂太僕特進費亭侯曹君之碑》,延熹三年立。碑陰又刊詔策,二碑文同。夾碑東西,列對兩石馬,高八尺五寸,石作麤拙,不匹光武隧道所表象馬也。有騰兄冢。冢東有碑題云:《漢故潁川太守曹君墓》。延熹九年卒,而不刊樹碑歲月。墳北有其元子熾冢,冢東有碑,題云:《漢故長水校尉曹君之碑》。歷太中大夫﹑司馬﹑長史﹑侍中﹑遷長水,年三十九卒,熹平六年造。熾弟胤冢。冢東有碑,題云:《漢謁者曹君之碑》,熹平六年立。
(訳文)濄水はさらに東へ流れ、譙県故城の北をよぎる。『春秋左伝』僖公二十三年に、楚の成得臣が軍勢を率いて陳を討伐し、譙を奪取し、頓を築いて帰還したとあるのが、これである。王莽の延成亭である。魏は譙郡を設立し、兖州の治府とした。沙水が南で枝分かれして北へ流れ、譙城の西をよぎり、北へ流れて濄水に合流している。濄水は城壁の傍らを四方にめぐる。城南には曹嵩の塚があり、塚の北側に碑があり、碑の北側に廟堂があり、基盤の一部が現存し、柱や礎も残っている。廟の北側に二つの石門が並び立っており、高さは一丈六尺、たる木や枡形、それに柱はみな雲の模様が刻まれている。上部の窓付きの衝立は壊れている。石門の北側に圭碑があり、題は『漢故中常侍長楽太僕特進費亭侯曹君之碑』といい、延熹三年(160年)に立てられている。碑陰にはまた詔策が彫られているが、二つの碑文は同じである。碑を挟んで東西に二頭の石馬が向きあっていて、高さは八尺五寸、作りは粗末なもので、光武帝の隧道で表されている象馬とは比べものにならない。曹騰の兄の塚があり、塚の東に碑があり、題を『漢故潁川太守曹君墓』という。延熹九年(166年)に卒したというが、碑を建てた年月は刻まれていない。墳墓の北側にその長男曹熾の塚があり、塚の東に碑があり、題は『漢故長水校尉曹君之碑』という。太中大夫、司馬、長史、侍中を歴任して、長水に遷り、三十九歳で卒し、熹平六年(177年)に(碑を)造ったという。曹熾の弟曹胤の塚、塚の東に碑があり、題を『漢謁者曹君之碑』といい、熹平六年に立てられている。

曹純の年齢がおかしい。

曹仁伝および注に引く『魏書』によると、曹仁は黄初四年(223年)に五十六歳で死んだという。ならば建寧元年(168)の生まれである。弟の曹純はもっと遅く生まれなければならない。父の曹熾の没年が分からないが、碑はたいてい本人が死んでから同年か、一二年後までには作られるものだから、熹平六年か、その少し前に死んだものと思われる。かりに熹平六年ちょうどとすると、曹熾が死んだとき、子の曹純は十四歳だったというから、曹純の生まれ年は延熹七年(164年)、曹仁より以前というからびっくりだ。兄より先に弟が生まれるということがありうるのだろうか。どこかに間違いがあるはずだ。

曹純は二十歳のとき陳留郡の襄邑で曹操とともに募兵を行ったという。この募兵が初平元年(190年)の挙兵の前年に行われたものだとすれば、曹純は建寧三年(170)生まれ、曹仁より二つ年下ということになり、なかなかいい塩梅だ。もし十四歳とあるのが四歳の誤りだとすれば、曹熾の没年は熹平二年(173年)となり、かれが死んで四年も経ってから碑が立てられたことになるが、兄より先に弟が生まれたとするのに比べれば、さほど不自然ではない。

ただ、一つ引っかかるのは、曹純が十八歳のとき黄門侍郎を務めたとする記事で、これはよほどの事情でもないかぎり官位が高すぎるのではないか。十八歳からそこらで就けるような官職ではない。のちに曹操が司空を務めていたとき、曹純は議郎になっているが、黄門侍郎の五品から議郎の七品への降格である。いちど官職を退いたからだとしても不自然の感は否めない。曹操献帝を奉迎したとき、曹仁が議郎、曹洪が同じく七品の諫議大夫となっており、これが曹氏一門の武将としてはある種の相場だったと思われるが、曹純はそれよりずっと早い段階から黄門侍郎を経験しているというのだから恐れいるほかない。

やはり、何かがおかしい。