光武帝と雉

『古小説鉤沈』に引く『列異伝』
秦の穆公の時代、陳倉の住民が地面を掘って、異様な生き物を見つけた。その形は猪にも似ていないし、羊にも似ていない。人びとは名前がよく分からなかった。
穆公に献上しようと引っぱって(行くうちに)、途中で二人の子どもに出会った。
子どもが言った。「こいつの名前は媼といって、いつも地面の下で死人の脳みそを食ってんだぜ。もし殺すつもりなら、こいつの頭に柏を突きさすといいよ。」
媼が言いかえした。「あの二人の子どもは名前を陳宝といって、雄を捕まえたものは王者になれるし、雌を捕まえたものは覇者になれるんだ。」
陳倉の住民は媼を置き去りにして二人の子どもを追いかけた。子どもは雉に化け、乎林に飛んでいった。
陳倉の住民が穆公に報告すると、穆公は労役囚を駆りあつめて大々的な山狩りをし、ついに雌のほうを捕まえたが、ふたたび化けて石になってしまったので、汧・渭のあたりに据えおいた。
文公の時代になると、祠を建てて陳宝(陳宝祠)と名づけた。
雄のほうは南方へ飛んでいって、落ちついたのが、現在の南陽郡の雉県がその地である。秦がその瑞祥を明らかにすべく、県をそのように名づけたのである。
陳倉で祭祀が行われるたびに、雉県から長さ十丈あまりの赤い光が飛んできて、陳倉の祠のなかに入っていき、雄雉のような声で鳴く。


『捜神記』
その後、光武帝南陽から勢力を起こしたのである。

訳文は『列異伝』から作ったが、『捜神記』や『宋書』符瑞志、『史記』秦本紀注、『新旧唐書』褚遂良伝にも同様の記載がある。光武帝のくだりは『列異伝』では省かれている。『康煕字典』に引く『爾雅釈詁』に「雉は陳なり」とあり文意は不詳のようであるが、陳宝の正体が雉であることを暗示している。「雉」は漢の呂后の諱を避けて「野雞」と代えられるなど「雞」に通じることから、雌雉の祠は宝雞祠とも呼ばれ、現在の宝鶏市の由来になっている。雌を捕らえた秦は覇者となり、雄を捕らえた(?)光武帝は王者になった、という理屈付けである。