孔融と黄巾賊

孔融が黄巾賊の来襲に為すすべなく手をこまぬいていたかのように言う人をよく見かけるので、『後漢書』本伝から引用しておこう。

後漢書孔融
(原文)後辟司空掾,拜中軍候.在職三日,遷虎賁中郎將.會董卓廢立,融每因對荅,輒有匡正之言.以忤卓旨,轉為議郎.時黃巾寇數州,而北海最為賊衝,卓乃諷三府同舉融為北海相.融到郡,收合士民,起兵講武,馳檄飛翰,引謀州郡.賊張饒等羣輩二十萬衆從冀州還,融逆擊,為饒所敗,乃收散兵保朱虛縣.
(訳文)のちに司空掾に招かれて中軍候を拝命し、在職三日で虎賁中郎将に昇進した。ちょうどそのころ董卓が廃立(を企てており)、孔融は事あるごとに対応し、そのつど正論を吐いた。董卓の気持ちに逆らったため、議郎に転任した。当時、黄巾賊がいくつかの州を侵害しており、とくに北海は一番の賊軍の矛先であった。董卓はそこで三公の役所を動かし、孔融を北海相へと一斉推挙させた。孔融は郡に到着すると士民を糾合し、軍兵を動員して武術を教え、檄文を馳せ飛ばして州郡を招いて計画を立てた。賊の張饒らの仲間二十万の軍勢が冀州から戻ってきたので、孔融は迎撃したが張饒に敗れ、敗残兵を回収して朱虚県に立てこもった。

もともと董卓に憎まれていた孔融は、黄巾賊の手で殺させるために北海相に任命された、という経緯がある。賊は二十万人。孔融の手勢は「士民を糾合し」とあるように、現地で急遽駆りあつめられた少数の即席部隊。むしろ、これで持ちこたえたことが奇跡的なのであって、否定的評価にはとても当たらないだろう。