袁譚はそのときどこにいたか

以下の見解に対する疑義。

http://yutori7.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1211016220/348
348 :無名武将@お腹せっぷく:2009/12/07(月) 21:11:37
>>347
この当時の権力闘争は権力中枢から地理的に遠ざかった時点で負けなんだよ。
袁譚は周知の通り青州に出され、袁尚はギョウに残ったと考えられる。
だから袁尚はギョウの留守を預かって命令系統を手中にしていた逢紀・審配によって
担ぎ出され、冀州牧の印綬と官僚機構をそっくり手に入れることができた。
袁譚青州刺史分の権力しか確保出来なかった。
同じく袁紹に付いて外征に従事していた有力者郭図もまた、新体制から弾き出されて
袁譚を擁するしかなかった。
袁譚袁煕を刺史として外に出した時点で袁紹の腹はほぼ決まってた。
少なくとも当時にはそう見える。にも拘らず、袁尚に権力を集中させる手続き
袁譚を失脚させるか、殺すか)を完了させずに死んでしまった。これが袁紹の失敗。

http://yutori7.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1211016220/351
351 :無名武将@お腹せっぷく:2009/12/07(月) 22:36:10
>>350
別に逆ではない。袁譚に人望があっても、袁尚派にそういうゴリ押しが出来るのが「首都」を抑える利点。
冀州牧・大将軍の印綬と節を確保すれば、袁紹が掌握していた軍と州へ命令を下す「正当な理由」を所有できる。
文書命令と官僚組織によって運営される中華の官制ではこれが圧倒的な力を持つ。


袁紹は、曹操が烏巣の淳于瓊を襲撃したと聞いて、袁譚とその後の作戦について語りあっている。袁紹軍が潰滅すると、袁紹袁譚らを連れて黎陽に逃れた。袁譚は官渡戦中、袁紹と行動をともにしていたことが分かる。

袁紹が死んだあと、人びとは年長の袁譚を擁立しようとしたが、審配らは袁譚を恐れ、袁紹の遺命を偽作して袁尚を後継者とした。後継者を決める場に袁譚も居合わせていて、後継者の有力候補と目されている。

袁譚は車騎将軍を自称し、城を出て黎陽に駐屯した。その後、曹操軍の追撃を提案して意見の一致を見なかったことから、はじめて抗争が起こり、南皮に去っている。それまでは鄴城や黎陽にいたのである。