孔融 左丞祖を殺す

三国志』と裴注だけ読んでると孔融がバカっぽく書かれている。

三国志』崔琰伝注
【原文】續漢書曰:左丞祖﹑劉義遜清雋之士,備在坐席而已,言此民望,不可失也.丞祖勸融自託彊國,融不聽而殺之..
【訳文】『続漢書』に言う。左丞祖、劉義遜は清廉俊才の士であったが座席を埋めるだけで、(孔融は)「こいつらには人望があるから手放すわけにはいかんのだ」と言っていた。左丞祖は「ご自身を強国に委ねなさい」と孔融に勧めたが、孔融は聞きいれずに彼を殺した。

この孔融は、先見の明を備えた忠臣を憤怒にかられて殺した、ということになっている。…が、『後漢書』では若干のニュアンス違いが見られる。

後漢書孔融
【原文】時袁﹑曹方盛,而融無所協附.左丞祖者,稱有意謀,勸融有所結納.融知紹﹑操終圖漢室,不欲與同,故怒而殺之.
【訳文】そのころ袁氏、曹氏の勢力が強まりつつあったが、孔融は協力相手を持たなかった。左丞祖は心中に計略ありと評判の人物で、「手を結びなさい」と孔融に勧めたが、孔融は、袁紹曹操が最終的に漢室に対する企てをなすであろうと分かっていたので、それには同調したくなく、このことを理由に腹を立てて彼を殺した。

袁紹曹操が漢室を乗っ取るであろうと予見して、その手助けはしたくない、というのが孔融の本意だったという。そして曹操らの簒奪を助けよと進言する不忠者を殺した、という解釈となる。


史書のスタンスによって同じ事件がこうも違った印象でそれぞれに語られる。