都督従事と督軍従事

後漢から三国にかけて都督従事、督軍従事という役職が見える。他の時代には見られないし、職官志などにも記載のない実態不明の役職だ。二十四史に見えるすべての記述を抜きだしてみた。

三国志武帝紀注
典略曰:遂字文約,始與同郡邊章俱著名西州.章為督軍從事.
『典略』に言う。韓遂は字を文約といい、はじめ同郡の辺章とともに西方で著名であった。辺章は督軍従事となった。

三国志袁紹
九州春秋曰:馥遣都督從事趙浮、程奐將彊弩萬張屯河陽.浮等聞馥欲以冀州與紹,自孟津馳東下.
『九州春秋』に言う。韓馥は都督従事の趙浮、程奐に強弩一万張を持たせて河陽に駐屯させていた。趙浮らは韓馥が冀州袁紹に譲ろうとしていると聞いて、孟津から東へと駆け下った。

三国志』牽招伝
冀州袁紹辟為督軍從事,兼領烏丸突騎.
冀州牧の袁紹が招聘して督軍従事とし、合わせて烏丸突騎を率いさせた。

三国志馬超伝注
典略曰:超後為司隸校尉督軍從事,討郭援.
『典略』に言う。馬超はのちに司隷校尉の督軍従事となり、郭援を討伐した。

三国志』梁習伝
建安十八年,州并屬冀州,更拜議郎﹑西部都督從事,統屬冀州,總故部曲.
建安十八年、幷州が冀州に吸収合併されると、改めて議郎、西部都督従事に任命され、冀州に所属して、従来どおりの部曲を総括することになった。

三国志』費詩伝
先主領益州牧,以詩為督軍從事.
先主は益州牧に就任すると、費詩を督軍従事とした。

三国志楊洪伝注
益部耆舊傳雜記曰:初仕郡,後為督軍從事.時諸葛亮用法峻密,陰聞祗游戲放縱,不勤所職,嘗奄往錄獄.
『益部耆旧伝雑記』に言う。はじめ郡に出仕して、のちに督軍従事となった。そのころ諸葛亮の法律の運用は峻厳であり、密かに、何祗が気ままに遊びほうけていて職務に勤めていないと報告を受け、お忍びで牢獄を視察した。
後有廣漢王離,字伯元,亦以才幹顯.為督軍從事,推法平當.
のちに広漢の王離というものがおり、字を伯元といったが、やはり才能でもって出世して督軍従事となり、法律の適用は公平妥当であった。

三国志楊戯
戲年二十餘,從州書佐為督軍從事,職典刑獄,論法決疑,號為平當.
楊戯は二十歳あまりで州書佐から督軍従事となり、刑獄を担当する役目となった。法律を検討して裁決を下し、公平妥当であると評価された。

このうち梁習の例はちょっと特殊で、幷州が冀州に吸収合併されたあとも従来の職務を引きつづき行ったということであるから、つまりここで西部都督従事とあるのは幷州刺史の言い換えに過ぎないようだ。

趙浮らは冀州牧、牽招もやはり冀州牧、馬超司隷校尉に属しており、これらの都督従事(督軍従事)は州の役職であると考えられ、そして職務内容はいずれも軍兵をつかさどる部将のような役割らしく見られる。もともと各州の刺史は、御史台配下の監察官であって兵権を持っていなかったが、おそらくは中平年間の黄巾の乱を契機に州兵を有するようになり、その統率者が都督従事(督軍従事)と呼ばれたということであろう。おそらく辺章は涼州刺史に属している。

楊洪、王離、楊戯はいずれも蜀漢の人物であるが、これらは上記とはすこし毛色が異なり兵権は持たず、裁判と刑務を担当していたような記述だ。督軍というのだから民間ではなく、軍部の治安をつかさどっていたのだろう。費詩の職務内容は明らかでないが、益州牧の配下とされていることから前述の州下の役職の可能性もある。


史料上に見えるのは以上が全てであり、その実態をつかむには根拠が不足していてよく分からない。