曹操廟に合祀された 25(+5) 功臣

明帝青龍元年(二三三)

夏侯惇(大将軍)
曹仁(大司馬)
程昱(車騎将軍)

斉王正始四年(二四三)

曹真(大司馬)
曹休(大司馬)
夏侯尚(征南大将軍)
桓階(太常)
陳羣(司空)
鍾繇(太傅)
張郃(車騎将軍)
徐晃(左将軍)
張遼(前将軍)
楽進(右将軍)
華歆(太尉)
王朗(司徒)
曹洪(驃騎将軍)
夏侯淵(征西将軍)
朱霊(後将軍)
文聘(後将軍)
臧霸(執金吾)
李典(破虜将軍)
龐悳(立義将軍)
典韋(武猛校尉)

斉王正始五年(二四四)

荀攸尚書令)

陳留王景元三年(二六二)

郭嘉(軍祭酒)

同時代人の目するところ、この 25 人が魏の建国の功臣というわけである。

ただし裴松之の指摘するように、晩年は曹操と対立して外されている荀彧、典韋を上まわる功績を立てた許褚、この 2 人を加えて実質は 27 人とすべきだろう。


さらに個人的な見解を差しはさめば、献帝の奉戴を勧めて、のちに魏王就任に奔走した董昭、鍾繇らとともに前朝の名臣であった賈詡を加えるべきかと思われる。また、少し時代は下るものの、陳羣が加えられるなら司馬懿もここに並ぶ資格は充分にあるだろうとも思われる。


ところで裴松之は、程昱を先、郭嘉を後にしたことは解せぬことと首をかしげているが、これは裴松之の言いがかりに近いのではないだろうか。程昱は、呂布が反乱を起こしたとき曹操膝下に馳せ参じて苦楽をともにした宿将で、荀彧とともに兖州を回復した類まれなる功績を挙げ、曹操献帝を奉戴したのちはその兖州の都督を委ねられるなど、信任ぶりは一方ならぬものがあった。しかし郭嘉は、曹操献帝を奉戴してから配下に加わった苦労をしらぬ新参であり、その後も目立った功績は見られない。郭嘉はもともと評価のたかい人物ではなかったのが、陳留王の時代以降に傅玄(『傅子』)などの再評価を受けて曹操廟に合祀され、陳寿が本伝を立てるほど重視されるにいたったと考えるべきではないだろうか。