王霸伝1

光武二十八将の一人。まずは王郎を斬るところまで。

王霸字元伯,潁川潁陽人也.世好文法,[一]父為郡決曹掾,[二]霸亦少為獄吏.常慷慨不樂吏職,其父奇之.遣西學長安.漢兵起,光武過潁陽,霸率賓客上謁,曰:「將軍興義兵,竊不自知量,貪慕威德,願充行伍.」光武曰:「夢想賢士,共成功業,豈有二哉!」《先謙曰:言心與霸同.》遂從擊破王尋﹑王邑於昆陽,還休鄉里.

[一] 東觀記曰:「祖父為詔獄丞.」

[二] 漢舊儀:「決曹,主罪法事.」

及光武為司隸校尉,道過潁陽,霸請其父,願從.父曰:「吾老矣,不任軍旅,汝往,勉之!」霸從至洛陽.及光武為大司馬,以霸為功曹令史,《劉攽曰:按功曹有史耳,不當有令字.惠棟曰:霸為光武屬歷功曹令史之職也,東觀記亦同.劉以為不當有令字非.》從度河北.賓客從霸者數十人,稍稍引去.光武謂霸曰:「潁川從我者皆逝,而子獨留.努力!疾風知勁草.」

及王郎起,光武在薊,郎移檄購光武.光武令霸至市中募人,將以擊郎.市人皆大笑,舉手邪揄之,[一]霸慚懅而還.[二]光武卽南馳至下曲陽.傳聞王郎兵在後,從者皆恐.及至虖沱河,候吏還白《惠棟曰:候吏,東觀記作導吏,下同.》河水流澌,[三]無船,不可濟.官屬大懼.光武令霸往視之.霸恐驚衆,欲且前,阻水,還《先謙曰:東觀記云,霸欲如實還報,恐驚官屬,雖不可渡,且臨水止,尚可為阻.》卽詭曰:「冰堅可度.」官屬皆喜.光武笑曰:「候吏果妄語也.」遂前.比至河,河冰亦合,乃令霸護度,[四]未畢數騎而冰解.《惠棟曰:東觀記,比至河流澌冰合,可履馬欲僵各以囊盛沙布冰上乃渡,渡未畢數車而冰陷.》光武謂霸曰:「安吾衆得濟免者,卿之力也.」霸謝曰:「此明公至德,神靈之祐,雖武王白魚之應,無以加此.」[五]光武謂官屬曰:「王霸權以濟事,殆天瑞也.」以為軍正,《先謙曰:東觀記謂,官屬曰:王霸從我勞苦,前遇冰變,權詞以安吏士,是天瑞也.為善不賞,無以勸後,卽日以霸為軍正.》爵關內侯.旣至信都,發兵攻拔邯鄲.霸追斬王郎,得其璽綬.封王鄉侯.

[一] 說文曰:「歋歈手相笑也.」歋音弋支反.歈音踰或音由.此云「邪揄」,語輕重不同.《孫星衍曰:說文作歋瘉,並無歈字.云人相笑相歋瘉,亦不云手相笑.瘉旣不成偏旁,且字從欠.許氏又必無訓為手相笑之理,賢之誤明矣.先謙曰:官本注歋作〓.》

[二] 懅亦慙也,音遽.

[三] 澌音斯.

[四] 堅護度也.《先謙曰:注無義,疑奪文.》

[五] 今文尚書曰:「武王度盟津,白魚躍入王舟.」

從平河北,常與臧宮﹑傅俊共營,霸獨善撫士卒,死者脫衣以斂之,傷者躬親以養之.《劉攽曰:案文,脫衣可言以斂之,躬親不宜復有以字.》

王霸は字を元伯といい、潁川郡の潁陽の人である。代々、法律を好み、[一]父は郡の決曹掾であった。[二]王霸もまた若くして獄吏となったが、いつも憤慨して役人仕事を疎んじた。父はそれを大したものだと思い、西方へ出して長安に遊学させた。漢兵が決起して、光武が潁陽を通りがかったとき、王霸は賓客たちを連れて拝謁し、「将軍が義兵を起こされてから、みずからの器量も弁えず、ご威光ご恩徳をお慕い申しあげておりました。願わくば隊列の足しにしてくださらんことを」と言った。光武は言った。「賢者とともに事業を成功させたいと夢に見るくらいなのに、どうして異論などあろうか!」《王先謙は言う。心は王霸と同じだと言っているのである。》こうして従軍することになり、昆陽で王尋・王邑を撃破、郷里に帰って休暇を取った。

[一] 『東観記』に言う。祖父は詔獄丞であった。

[二] 『漢旧儀』にいう。決曹は罪法の事柄を司る。

光武が司隷校尉となり潁陽を通過したとき、王霸は従軍してくれるよう父に頼んだ。父は言った。「わしは年老いて、軍務には耐えられぬ。お前が行け。がんばれよ!」王霸は従軍して洛陽へ行った。光武は大司馬になると王霸を功曹令史とした。《劉攽は言う。思うに功曹には史があるだけだ。令の字は入れるべきでない。恵棟は言う。王霸は光武の属官となり、功曹や令史の職を歴任したのである。『東観記』も同様である。劉氏が令の字を入れるべきでないとするのは間違っている。》従軍して河北へ渡ると、王霸が連れていた数十人の賓客たちは、少しづつ立ちさっていった。光武は王霸に言った。「わたしに従っていた潁川の者たちはみな去ってゆき、あなただけが残ってくれた。がんばれよ!疾風があればこそ根強い草を理解できるものだ。」

王郎が挙兵したとき、光武は薊にいたので、王郎は檄文を回して光武に賞金をかけた。光武は王霸に命じて市場で募兵させ、それで王郎を攻撃しようと考えた。市場の人びとがみな大笑いし、手を挙げてかれを邪揄したので、[一]王霸は慚懅して帰ってきた。[二]光武はすぐさま南方へ走り、下曲陽まで到達した。王郎軍が後方に迫っているとの報告があり、従者はみな恐怖した。虖沱河まで来たとき、候吏が戻ってきて言うには、《恵棟は言う。候吏を『東観記』では導吏と作っている。以下同じ。》河の水が澌(さらさら)と流れていて、[三]船もなく、渡ることができません、とのこと。属官たちは大いに恐怖した。光武が王霸に命じて見に行かせた。王霸は人びとを驚かせてはと心配し、とりあえず前進させようと思い、水際にぶつかると、引きかえしてきて《王先謙は言う。『東観記』は言う。王霸は事実をそのまま報告しようと思ったが、属官たちを驚かせてはと心配し、渡ることはできなくても、とりあえず水際で停止すれば、まだ足留めくらいにはなるだろうと考えた。》とっさに嘘を言った。「氷が固まっていて渡ることができます。」属官たちはみな喜び、光武は「候吏の言葉は、やっぱりでたらめだったな」と笑い、そのまま前進することにした。河に差しかかったころには、河も凍結しており、そこで王霸に命じて護度させた。[四]騎兵数人が残っているところで氷が解けた。《恵棟は言う。『東観記』にいう。河に差しかかったころには流れが凍結しており、馬を載せることができた。壊れそうになったときは各人が砂を詰めた袋を氷上に敷きつめてから渡り、数台の車両が渡りきらないうちに氷は陥没した。》光武が王霸に言った。「わが軍を安心させて無事に渡すことができたのは、あなたの尽力である。」王霸は感謝して言った。「これは明公の至高の恩徳が神霊の助けをなしたものです。武王の白魚の瑞兆もこれ以上のものではございませぬ。」[五]光武は属官たちに言った。「王霸が機転を利かせて仕事をやり遂げたのは、まず天の瑞兆に違いあるまい。」これにより軍正となり、《王先謙は言う。『東觀記』では、属官たちに「王霸はわが苦難に付き合ってくれ、かつて氷上の異変に立ち会ったときは、機転の利いた言葉で官吏や兵士を安心させてくれた。これは天の瑞兆である。善行をなして褒美がなければ後進を励ますことができないものだ」と言い、当日のうちに王霸を軍正とした、とある。》関内侯の爵位を賜った。信都に到達したあと、軍兵を動員して邯鄲を攻め、陥落させた。王霸は追走して王郎を斬り、その璽綬を奪いとった。王郷侯に封ぜられた。

[一] 『説文』に言う。「歋歈とは手を笑うことである。」歋の音は弋支の反切(イ)。歈の音は踰(ユ)、あるいは由(ユウ)。ここで「邪揄」とあるのは、言葉の強弱が同じでないのである。《孫星衍は言う。『說文』は「歋瘉」と作り、いずれも「歈」の字はない。「人を笑うさまを歋瘉という」とし、「手を笑う」とはしていない。「瘉」は偏旁が成立しない上、字形は「欠」に従うのである。許氏も「手を笑う」などという読み方は絶対にしなかったはずだ。李賢の間違いは明らかだ。王先謙は言う。官本の注は「歈」を「〓」と作る。》

[二] 「懅」もやはり恥じることである。音は遽(キョ)。

[三] 「澌」の音は斯(シ)。

[四] 渡河を堅く警護することである。《王先謙は言う。注は意味が通らない。おそらく脱文があろう。》

[五] 『今文尚書』に言う。「武王が盟津を渡ったとき、白魚が武王の舟に飛びこんだ。」

河北平定に従軍して、いつも臧宮、傅俊と陣営をともにしたが、王霸だけが士卒をよく慰撫し、死者があれば着物を脱いで以て葬ってやり、負傷者があれば自分で以て療養してやった。《劉攽は言う。文章を考慮すると、着物を脱いだことで「以て葬る」と言うのであれば、「自分で」のあとに再度「以」の字を使うべきでない。》