論理性を武器にする

なんとなく数学者はいかがわしいという印象がある。
TVや新聞などのインタビューがあると、ほぼ決まって「数学って何の役に立つのですかとよく聞かれる。そんなときは論理的思考を身に着けるのに役立ちますと答えるようにしている」なんてセリフが出てくる。実にいかがわしい。

論理的思考をしなければ数学の問題を解くことはできないのはその通り。しかし論理的思考が求められるのは物理学だろうと言語学だろうと経済学だろうと歴史学だろうと学問と名の付くものであればみな同じことだ。論理性を身に着けられるのは数学に限られるということを論理的に説明した数学者をいまだ見たことがない。

そのような質問を受け、またそのような返答しかできないのは、数学が何かに役立てるためのものではないからだろう。一部の成果が結果的に他の分野で実用化されることはあるかもしれないが、基本的には役に立たない。ならば正直に「何の役にも立ちませんよ」と答えるのが誠実であり、論理的な姿勢ではないか。

そもそも、そうした問いそのものがほとんど数学者を通じてしか聞かれないのは、数学者自身が、数学に対して自信を持てないからこそ、その問題に執着し、答えにならぬ答えを第三者に伝えたがるからだろう。

数学が何かに役立つものでないことを、数学者はなんら恥じる必要はないはずだ。数学のみならず、学問はおしなべて役に立たないものだし、むしろ役立ってはならないとすら私は思う。「役立つ」というのは「見返りがある」ということだろうが、見返りがあるからやる、見返りがないからやらない、というのは要するに商行為であって、そういうものが尊いとはちっとも思われない。

数学者がみなそうであるわけではなく、数学が役立たないことを知り、そのうえで自分の研究価値に自信をもっている数学者もいる。自信のない数学者ほど「論理性」を連呼しているような印象がある。

「論理性」を連呼するのは自信のない数学者だけではない。しかし自信のないものほど「論理性」を強硬に主張するという傾向はありそうだ。そういえば漫画家の小林よしのりさんも一時期「論理論理」と言っていたことがあった。

なにかを主張するとき論理的であることは当たり前の前提であるのに、それを最大の武器として前面に押し出してくるのは、その論理に裏付けとなる実証的なデータがないからだ。資料を収集して地道に分析するという、あまりに退屈で時間のかかることをやりたくないし、やらない。でも、なんらかの主張だけはしたい。そういうときは「論理」を武器にするしかない。やたら「論理性」を連呼する人があれば、「ああ、裏付けとなるデータがないんだな」と思って差し支えない…かもしれない。

はい、みなさんご一緒に。

「論より証拠!」

…などという裏付けのない戯れ言を言ってみるテスツ。