韓遂

韓遂は、215年に死んだとき70歳余りだったという。わざわざ余というからには70ちょうどではなく、71以上ということなのだろう。そして曹操(当時61歳)と同世代だったともいう。同世代の定義がよく分からないが、十二支を一回りしない程度と仮定すれば、韓遂の享年は71〜72歳の範囲に絞られる。

韓遂の父は曹操と同期の孝廉だったという。曹操が孝廉になったのは20歳のときだったが、同期の孝廉に50歳の者がいた。これだけ高齢の孝廉は他にはまずなかっただろうから、それが韓遂の父のことかも知れない。

韓遂の挙兵から病死まで32年が経過していたとする説もあり、30年だったとする説もある。韓遂が挙兵したのは184年なので32年とするのが正しい。30年というのは概数だろう。209年の時点では26年にしかならず、閻行が「挙兵以来30年以上」と語っているのはおかしい。

三国志武帝紀に「麴演・蔣石らが韓遂を斬った」、同周羣伝に引く『続漢書』に「殺害された」、『後漢書董卓伝に「旗下に殺害された」とあるが、同天文志では「病死した」となっていて死因が異なっている。『三国志』王脩伝に引く『魏略』郭憲伝に「韓約(韓遂)が病死したので田楽・陽逵らがその首を斬った」とあるのが真相に近いのだろう。