非対称戦にどう立ち向かうか

昨日のエントリ「南京事件 残りの80万はどこへ行った?」にいただいたコメントへの返信。補足(あるいは言い訳)をかねて。
なるほど、その懸念はよく分かります。
ただ、南京事件における犠牲者が何人であったかだなんて法的にも学術的にもさして重要な論点じゃないと私は思うんですね。にも関わらず、いわゆる否定論者は盛んに数ばかりを取りあげるわけです。これは何なんだろうな、と。実のところ、彼らも数そのものに興味があるわけではなくて、わざとありえない数を提示しておいて大げさに驚いたふりをし、その「ありえなさ」を演出したいだけなんだろうと思うんですね。その「ありえなさ」は事情を知らない人たちにとっては非常にインパクトが強い。否定論者たちはそのインパクトを狙っているだけで正確な数を出そうとは微塵と考えてないと想像しています。
彼らがたった一言のでたらめを発するだけで、数百人、数千人オーダーの人々がなにがしかの衝撃的な印象を抱き、そのでたらめに丸め込まれてしまう(馬鹿煽動力が高いとはそういう意味です)。これに対して誠実かつ慎重な姿勢でもって、千言万語を費やして精密な議論を展開したとしても、それに耳を傾けて納得してくれる人はせいぜい数人オーダーでしかないでしょう。しかも、そこまで聞いてくれる人ならば、おそらく否定論者のでたらめに最初から耳を貸さなかった人でしょうから、そういう人でない、あのインパクトに呑み込まれてしまった「浮動票」を取り戻すことはほとんどできないと思うんですよ。たとい彼らに論理的な数の説明を受け入れさせたとしても、その心象風景からはあの衝撃的な印象そのものを取り去ることはできないわけです。
要するに非対称戦なんです。この辺り、否定論者は本当に巧いなぁと思います。その非対称戦を(我が方はルールを守りつつ)どう戦っていくかが問題になってきます。
新聞の手法に、結論から先に記事を書いてしまうというのがあります。最初にインパクトのある見出しを立て、それから記事の概要を書き、そのあと根拠を提示していきます。普通の書き方では、まず根拠を提示して、最後に結論を述べますよね。しかし、それでは気の短い読者は最後まで読んでくれない。説明している途中で、分かりやすくてインパクトのある否定論に読者を持っていかれてしまいます。いわゆる3秒ルールです。
重要な論点ではないとしても数の議論は避けられないと思います。しかし数の議論をするならば、否定論者の煽動的発言とは一線を画す必要があります。その話のマクラとして「その20万人は事件を生き延びた人だよ」と宣言しておくのは、一つには否定論者の詐欺的話術の手法を暴露し無効化すること、一つには分かりやすい事実を確実に聞き手へ伝達すること、一つにはそれによってより科学的な議論の方向へと聞き手の関心を引き入れること、以上三つの効果が期待できるのではないかと思います。
「20万人しか居なかった街で30万人が殺されるわけがない」というのは、つまり「犠牲者30万<人口20万は成立しない、よって南京事件の事実は”偽”である」という主張でしょう。なるほど、事前の知識がない人から見ればその主張はもっともな内容ですよ。しかし、この主張は「南京市の人口は20万である」とする誤った前提に基づいています。ただ、その誤りは数の誤りではなく、論理の誤りと捉えるべきでしょう。このとき例えば「南京市の平時の人口は100万だよ」「南京陥落時の人口は不明だよ」と主張した場合、それは数の誤りを批判しえているに過ぎず、論理の誤りへの批判にはなっていないんですよ。しかし「その20万人は事件を生き延びた人だよ」と主張すれば、論理の誤りへの批判であることが明確になり、引いては数の誤りも自動的にはっきりするわけです。
ここにおいて、南京事件の犠牲者数を考えるにあたって安全区民の人数をほとんど除外して考えることができるようになります。安全区民が何人であろうが事件の犠牲者数にほとんど因果関係を与えないということですから、あの否定論者の詐術を暴露するとともに無効化することができ、さらに、それでは「残りの80万はどこへ行った?」という新たな問いへと読者を導くことができるわけです。
千言万語を費やさなければならない本格的な数の論証は、そこから始めればいいと思う。あからさまな悪意を毅然と遮断し、政治的意図を極力排しつつ、科学的主張のできる場所を調える前準備としては決して悪くはない方向だと思うんですよ。

関連:http://d.hatena.ne.jp/mujin/20060409/p1