世界は袁術を中心に回ってる1

初平・興平年間は、袁術を中心に回ってたんじゃないかという仮説。そんな大層なもんではなくてですね、まあ「こういう見方をしても史書とあんまり矛盾しないよ」くらいの感じです。なにも「こんなことが証明された!」と言ってるわけではないんで、そこんとこ誤解のないようお願いします。まあ叩き台としてはこのくらいかなと。以前、別の場所で書いたことをこっちで書き直します。
袁術中心説――。

簡単にいうと、初平元年(一九〇)の挙兵以来、建安元年(一九六)にいたるまで、もっとも強大で、もっとも声望が高く、もっとも皇帝の座に近かったのは袁術だった、歴史は袁術を中心に動いていたのだ!!という説。

そもそも、その着想のきっかけは、曹操の上洛を阻止しようとした袁術配下の萇奴という部将の存在でした。なぜ袁術の部将がこんなところにいるんだ?なぜ董承と手を組んでいるんだ?それに韓暹・楊奉・金尚の動き。劉表でも袁紹でもなく、なぜ袁術に身を寄せたんだ?

そんなことからぼんやりと見えてきたのは、袁術が、献帝の周辺にいた重臣たちとなんらかの結び付きを持っていて、それが他の群雄よりも色濃いこと。他の群雄ではあまりそういう例が見られない。で、もしかしたら袁術は、当時、献帝重臣たちのあいだではどえらい信望があったんじゃないの?という感じがしてくるわけですよ。印象なんですけどね。で、下手したら、献帝周辺の重臣たちはほとんど袁術の意のままに動いていたんじゃないの?という感じもしてくるわけですよ。印象なんですけどね。そんなことを3〜4年くらい前から考えてました。

そういうわけで、これから何回かに分けて、袁術中心説から『三国志』を読み直してみようじゃないかと。そういうことをやっていきたいと思います。