公孫度

公孫度の本郡がよく分からない。はじめは、祖父の代までは歴とした遼東人、父の公孫延の代で遼東在籍のまま玄菟に移住し、中央に出仕できたので名実ともに遼東人へ戻ったという解釈をしていたが、盧弼の『三国志集解』では同郡の徐栄を玄菟人だと言っているので、ああそうかやっぱり玄菟人と読めばいいのかと思ってしばらく過ごしてきた。しかし最近気付いたところで『後漢書袁譚伝には息子の公孫康を遼東人だと言っている。かと思えば同じく『後漢書』の謝弼伝では玄菟人とする。結局どうなんだろう。玄菟に移住したのを公孫度の代とする説もある。

三国志公孫度
(原文)度字升済,本遼東襄平人也。度父延,避吏居玄菟。同郡徐栄董卓中郎将,薦度為遼東太守。
(訳文)公孫度は字を升済といい、もともとは遼東襄平の人である。公孫度の父の公孫延は役人を避けて玄菟に住まいした。同郡の徐栄董卓の中郎将となり、公孫度を遼東太守にするよう薦めた。

三国志集解』武帝
(原文)徐栄,玄菟人。為董卓中郎将。見公孫度伝。
(訳文)徐栄は玄菟の人で、董卓の中郎将であった。『公孫度伝』に見える。

後漢書袁譚
(原文)康,遼東人。父度,初避吏為玄菟小吏。
(訳文)公孫康は遼東の人である。父の公孫度はむかし役人を避けて玄菟の小役人となっていた。

後漢書』謝弼伝
(原文)弼与東海陳敦・玄菟公孫度倶対策,皆除郎中。
(訳文)謝弼は東海の陳敦、玄菟の公孫度とともに対策し、みな郎中に叙任された。