もうどうでもよくなってきた趙範の件

あなた宛の新しいメッセージが届いています(差分)。

だそうで、メッセージを開いてみた。

資料は示したはずですが・・・

あなたは正史にあることが全て正しいと思っているのですか?
正史とは王朝のお墨付きの文献で、文章が簡潔過ぎる場合も多いんです。
つまり、抹殺された事項とかも多いんです。

今のところはなにもしませんが、あなたが他の項目で同じ行為した場合は時によっては、荒らしと見なしてもらいます。


※特に下記の部分は特に読んでください。唐以前でも同様なことがあったはずです。

>正史は王朝の支配の正統性を明らかにする道具となり、
>王朝が成立すると滅亡した前王朝の正史を編纂させるようになった。
>このため、正確さよりも政治的思惑が最優先されて歴史書としての
>価値は大きく損なわれる事になった。


しつこいかも知れませんが、(ノート:趙範)を見てください。
これで、あなたの固い考えや視野の狭さを改めて見てください。

ということなので、ノートを見てみた。

趙範に関してこんな記事があります*1


趙範は『演義』では趙雲と同族であり、常山郡真定の出身としている。
もし、趙範が桂陽太守に赴任する時には当然一族を故郷に残しており、
仮に彼が北方の人なら、同族とされる趙雲と結縁したことが曹操に知られると、
その一族が危険の憂目に遭うことは必然である。つまり、趙範は南方の人の可能性が高い。
後漢書』「南蛮伝」の記述では、
「交阯国(現在のベトナム)の西に噉人の国がある。
初めての子供が生まれると、直ちに殺し潰して食べてしまう。
それは、後に生まれる弟のためだと言っている。
味の美味な人肉はその君主に献上し、君主は喜んでその父親に褒美を賜る。
また、妻を娶った時に美人であればその兄に譲る。
現在の烏滸(チャム族)の人がこれに該当する」、と。
趙範自身が烏滸の出身か混血を受けたとは思えないが、その影響を受けた文化圏の
出身であったとは思われる。

横から一言。まず署名することを覚えましょう。次にWikipediaでは一次史料の解釈は推奨されません。個人の研究発表の場ではないからです。学術分野では必ず研究者による成果を、著作権に触れないような形で記述することが求められています。検証可能性やWikipedia:独自の調査あたりのWikipediaルールを熟読してください。もし加筆者個人の私見ではないのであれば、依拠する研究論文名や著作の提示を行い、可能で有ればそれがどの程度学会で支配的な意見であるかを提示してください。そうすれば、無用なリバート合戦は回避できます。--219.98.5.88 2007年1月14日 (日) 14:43 (UTC)

*1:http://mujin.parfait.ne.jp/mujins/sanguo/t.html#Chou-Han1からの引用なんだけど、あちこちを少しづつ改変している。出所の表示もない。wikipedianの一人なら著作権についてもうちょっと気を遣った方がいいと思う。