官渡決戦における曹操の諸判断

ニセクロさんのところにも書いてきましたが、私はこの戦いでの曹操の采配をまったく評価してません。最終的に袁軍を大破できたのは「まぐれ」だと思っています。
まず、地理から見ると、曹操はなにはさておいても黄河を守らなければならなかったはずです。袁軍に黄河を渡らせてしまったら万事休す、兗・予州その他の諸豪傑が一斉に離叛して、曹操に襲いかかってきても不思議ではありません。だからこそ建安四年(一九九)、袁軍南下の噂を聞いた曹操はすぐさま黎陽に出陣し、臧霸らに背後を脅かせて袁軍の渡河を阻止したのです。

このとき曹操は河内郡を落として魏种をその太守とし、河北の仕事を一任していましたから、曹氏は黄河南岸はおろか北岸まで勢力を伸ばしていたのです。だから曹操は北岸にある黎陽に陣地を築くことができたし、于禁を分遣してやはり北岸にあった延津城を守らせられたのでした。

第一ラウンドは積極的に攻勢にでた曹操の優勢です。

ところが、理由はよく分かりませんが、曹操は黎陽から許・官渡へ引きあげてしまいます。そのころ南陽に勢力を張っていた張繡が帰服したり、董承・劉備が叛逆を企てていたりしたので、その対応のためかもしれません。さらに翌五年(二〇〇)、曹操劉備誅伐のため徐州へ出征します。これで黄河北岸はすっかり丸裸になってしまいました。危険です。袁軍が大挙して押し寄せたら持ちこたえることはできません。

曹操黄河北岸の延津城に于禁を残していました。さらに徐州遠征に参加させていた楽進を延津の加勢とすると、于禁楽進らは延津から黄河北岸を西南へさかのぼって汲・獲嘉を平定したといいますが、これは史書の言葉の綾というもので、その実態は、袁軍の圧迫を受けて延津を維持することができず、みちみち袁軍の砦を各個撃破しながら河内駐留軍に合流しようとしたのでしょう。こうして黄河北岸一帯は袁紹の手に落ちました。

第二ラウンドは曹操からダウンを奪って袁紹が大きく優勢です。

袁紹黄河北岸をほぼ手中に収めると、そのまま南岸への渡河を試みます。袁紹がまず入城したのが黎陽城です。昨年までは曹操の拠点だったはずですが、このときすでに放棄されていたことが分かります。袁軍の郭図・淳于瓊・顔良の三人が黄河を渡って南岸の白馬城を包囲しました。曹操は延津から北岸へ渡河するふりをして袁軍を翻弄し、その隙に関羽張遼を白馬に急行させて顔良を斬ります。

普通に考えれば、そのまま白馬に入城して袁軍の渡河を阻止すべきところですが、曹操は白馬の領民を連れて引き返してしまいました。これは顔良を討ちとりはしたものの、郭図らを追いかえすことができず、黄河南岸がすっかり袁軍の手に落ちてしまったからです。しかも延津から渡河するふりをしたので袁軍主力が延津に結集しており、白馬でぐずぐずしていては背後を遮断されるおそれがありました。もし顔良のみならず郭図・淳于瓊らを撃破して白馬を堅持できていれば、東の白馬と西の官渡の両方から延津を睨むことができ、袁軍を渡河させずにいられたでしょう。それができなかったのは、やはり白馬の失敗のせいです。

第三ラウンドは有効打を与えながらもカウンターをくらって曹操がダウン、またも袁紹が優勢を取りました。

曹操は延津の南岸まで後退します。そこで延津から黄河を渡ってきた袁軍の文醜を討ちとりますが、これは大勢に影響を与えるほど重要な戦闘ではなく、曹操はそのまま官渡まで後退を余儀なくされました。一方、袁紹は延津から黄河南岸へ渡り、白馬の郭図らと合流、河南郡の陽武に入城します。

第四ラウンドは袁紹の猛攻になすすべなく曹操がダウン、またまた袁紹にポイントです。

袁紹は陽武城から前進して砂丘を占拠し、東西に広がる陣地を築きました。曹操も手勢を出して対抗させましたが、効果なく、官渡城に引きこもります。袁紹はさらに前進して官渡城を包囲します。曹軍はすでに食糧さえ底を尽くありさま、袁軍の猛攻を受けて反撃もできません。このとき、袁紹は汝南にいた劉辟・劉備らに曹操の本拠地・許城を背後から襲撃させ、一気に片を付けようとしますが、これは曹操がよく対応して防ぎました。

第五ラウンドは袁紹に圧倒されて曹操は手も足も出ず、ダウンしなかったのが不思議なくらい、というところ。

両軍は官渡で対峙したまま百日あまり、「河南」の人々は戦いに疲れ、次々に曹軍から袁軍へと寝返りました。「河南」というのは河南郡だけのことではなく、黄河南岸を広く指しているのでしょう。両軍の対峙する官渡は河南郡の東端にあるのですから、それより西側では袁軍の脅威を直接的にはあまり受けておらず、まだ袁曹の決着のつかないうちに寝返りをうつ理由はないはずです。一方、黄河以南、官渡以東はすでに袁軍の闊歩する通行路となっていて、要塞に立てこもって抵抗していた連中ももうそろそろ耐えきれなくなっているころです。このとき「河南」からの帰参者があまりに多かったため、袁紹は淳于瓊に命じて北方から烏巣へ食糧を搬入させています。

曹操は人数が少ないうえ地元での戦いで食糧に困窮することはなかったはずですが、連敗に連敗を重ねて各地の食料庫を手放したせいか、このとき食糧はすっかり底を突いていました。一方、袁紹は大軍を抱えての遠征で、しかも敵地に深く侵入したまま長期滞在していましたが、食糧には全く不自由していません。これは袁紹兵站能力の高さを示しています。

第六ラウンドは両者ともにスタミナ切れと見えてパンチに力がありませんが、それでも曹操はまたもダウン。ちょwwwwおまww曹操wwwwwwwダウンしすぎwwうぇwww

曹操は官渡に曹洪を残すと、みずから五千人を率いて烏巣を襲撃しました。淳于瓊が陣営に立てこもるので攻撃をかけていると、袁軍の救援の騎兵隊が背後から迫ってきます。側近が「部隊を二手に分けて背後を守らせましょう」と言うのをしりぞけ、曹操は背中を丸出しにして淳于瓊を攻めました。兵士たちは背後に迫る敵兵に恐怖し、いつもより勇敢に戦い、ついに淳于瓊を撃破します。

しかし、これはとんでもない蛮勇。たまたま勝てたからよかったものの、もし淳于瓊があと数分でも持ちこたえていたら、前後から挟み撃ちにされて曹操自身が命を落としていたでしょう。しかも烏巣の勝利は戦略的にほとんど価値のない小さな戦闘です。そんな価値のない戦いのために国家の大臣が命を投げだすとは、あまりに慎重さを欠いた行為です。もしかしたら曹操自身も本当は捨て鉢になっていたのかもしれません。

第七ラウンドは曹操が渾身の力を振るって捨て身の攻撃、これがうまくヒットしますが袁紹は倒れず。

曹操が官渡をたって烏巣へ向かったことを知ると、袁紹張郃・高覧に官渡城の曹洪を攻撃させます。ところが、理由は分かりませんが、この二人はとつぜん曹軍に寝返ります。さらに分からないのは、二将軍の寝返りをきっかけに袁軍が恐慌状態に陥り、戦わずして潰滅してしまったことです。烏巣で淳于瓊が敗死したことも、官渡で二将軍が寝返ったことも、戦況を全体的に見れば大して意味はないのですが、そこが群集心理の不思議さというものか、曹操の運の強さというものか、なぜか袁軍が自壊してしまいます。これは袁軍の自壊ですから、曹操のポイントにはなりません。しかし、勝ってしまったのは事実なんだから仕方ない。

第八ラウンド、空振りしたはずみで足がもつれて袁紹がダウン、そのまま起きあがれず。KO。

結果的には勝ちましたが、曹操、いいところなし。曹操の用兵を見習ってはいけません。(なんかタイトルとちょっと違う内容になっちゃったけど、まあいいや……。)