烏林戦に関する記述の抽出

武帝紀』
秋七月、公は南進して劉表を征討した。八月に劉表が卒去し、その子劉�が跡を継いで襄陽に屯し、劉備が樊に屯した。九月、公が新野に到達したところで、劉�はついに降服し、劉備は夏口に逃走した。公は江陵に軍勢を進め、荊州の官吏民衆に布令を下し、ともに改革を始めることとした。そこで荊州帰服の功績を賞したところ、侯に封ぜられた者は十五人であった。劉表の大将文聘を江夏太守として元の軍勢を統括させ、荊州の名士韓嵩・�義らを登用した。益州劉璋が初めて軍役に応じ、軍勢を派遣して人数を補充した。十二月、孫権劉備に荷担して合肥に攻め上った。公は劉備を征討しつつ江陵から巴丘へと進み、張熹を派遣して合肥を救援させた。孫権は張熹の到着を聞いて逃走した。公は赤壁に着陣したが、劉備との戦いは不利であった。このとき疫病が大流行して官吏・兵士が数多く死んだため、軍勢をまとめて帰還した。劉備はかくて荊州のうち長江南岸の諸郡を領有した。

武帝紀』注引『山陽公載記』
公の艦船が劉備に焼かれたとき、(公は)軍勢をまとめて華容道から徒歩で帰ったが、泥濘にぶつかって道路は通ぜず、天候はそのうえ強風が吹いていた。総動員をかけて羸の兵に草を背負わせて埋め、騎馬武者はやっと通過することができた。羸の兵は人馬に踏み付けられて泥の中に沈み、極めて多くの死者を出した。軍勢が脱出できたとき、公は大変に喜んだ。諸将がその理由を問うと、公は言った。「劉備は吾の同類であるが、ただ計略を思い付くのが少しばかり遅かったな。あらかじめ先手を打って放火しておけば、吾等は全滅するところであったぞ。」劉備はすぐに放火したが間に合わなかった。

『太平御覧』所引『英雄記』
曹操は軍勢を進めて長江のほとりに着くと、赤壁から長江を渡ろうと思った。船がなかったので、竹で筏を作り、部曲らをそれに載せた。漢水沿いに川をくだり、長江の注浦口に出たが、すぐには渡ろうとしなかった。周瑜は夜中、ひそかに軽船・走舸一百艘をやって筏を焼かせた。曹操はそのため夜中に逃走することになった。

『太平御覧』所引『英雄記』
周瑜は江夏を守っていた。曹操赤壁から長江南岸へ渡ろうと思ったが、船がなかったので筏に乗り、漢水沿いに川をくだって浦口に着いたが、すぐには渡ろうとしなかった。周瑜は夜中、ひそかに軽船・走舸一百艘あまりをやり、一艘ごとに五十人が棹をあやつり、一人ひとりに松明を持たせた。松明を持つものは数千人、船のうえに立たせて行列を集めさせた。火を放たせ、燃えうつると、すぐに船を返して逃げかえった。たちまち数千艘の筏に火がつき、炎は天空をてらした。曹操はそのため夜中に逃走することになった。

『太平御覧』所引『英雄記』
曹公が赤壁で敗北したおり、雲夢の大沢まで行ったところで濃霧に出くわし、道路を見失い迷ってしまった。

曹仁伝』
荊州平定に従軍した。曹仁は行征南将軍として江陵に駐留し、呉将周瑜を防いだ。

曹仁伝』附『曹純伝』
荊州制圧に従軍し、長阪において劉備を追撃、その娘二人と輜重を鹵獲して敗残兵を接収した。進撃して江陵を攻落し、譙への帰還に従った。

徐晃伝』
荊州征圧に従軍し、別働隊として樊に屯し、中廬・臨沮・宜城の賊を討った。また満寵とともに漢津で関羽を追討し、曹仁とともに江陵で周瑜を攻撃した。

『文聘伝』
太祖(曹操)が荊州を征伐すると、劉�は州を挙げて降伏した。(…)太祖が漢水を渡ると、文聘が太祖のもとに参詣したので、(…)礼を厚くして彼を待遇した。文聘に兵を授け、曹純とともに長阪で劉備を追討させた。太祖は先に荊州を平定したが、江夏郡は呉と接していたので、民心は不安であった。そこで文聘を江夏太守とし、北方の兵を管轄させ、国境地帯の事を委任して、関内侯の爵位を賜った。楽進とともに尋口で関羽を討ち、戦功があったので延寿亭侯に進められ,討逆将軍の官を加えられた。また関羽の輜重を漢津で攻撃し、彼の船を荊城で焼いた。

『満寵伝』
建安十三年(二〇八)、太祖の荊州制圧に従軍した。大軍が帰還するとき、満寵は行奮威将軍として当陽に残留した。

孫権伝』
劉備とともに進撃し、赤壁で遭遇した曹公の軍勢を大破した。公は残りの船を焼きはらって引きあげたが、兵士たちは飢えたり疫病にかかったりして大半が死んだ。劉備周瑜らがさらに南郡まで追撃すると、曹公はとうとう北方に引きはらった。

周瑜伝』
その年九月、曹公が荊州に進入すると、劉�は軍勢をこぞって降服した。曹公がその水軍を手に入れ、水兵・歩兵は数十万人になったので、(呉の)将兵たちはそれを聞いてみな恐懼した。(…)このとき劉備は曹公に打ち破られ、南方へ引き揚げて長江を渡ろうとしていたが、当陽で魯粛と遭遇し、かくて共同して計画を立てることになった。そこで夏口に進駐し、諸葛亮孫権のもとに派遣した。孫権はかくて周瑜および程普らをやって劉備と協力して曹公を迎撃させ、赤壁で対峙した。時に曹公の軍勢はすでに疾病を抱えており、初めに一度交戦しただけで曹公の軍は敗退し、長江北岸に引き揚げていった。周瑜らは南岸に布陣した。周瑜の部将黄蓋が言った。「いま賊は多勢、我は寡勢であって持久戦は困難です。しかしながら曹操軍を観察いたしまするに、艦船をまっすぐ連ねて舳と艫とが接しております。焼き討ちにすれば敗走させられましょうぞ。」そこで蒙衝・闘艦数十艘を選び、薪や草を詰め込んでその中に膏油を注ぎ、帷幕で包んで上に牙旗を建て、あらかじめ曹公に手紙を送り、偽りの降服をしようとした。またあらかじめ走舸を準備して、それぞれ大船の後方に繋いでおき、それから行列を作って前進した。曹公軍の官吏・兵士らはみな首を伸ばして遠望し、指差しながら黄蓋が降服してきたと言った。黄蓋はもろもろの船を放ち、時を同じくして火を起こした。時に風は猛り狂い、ことごとく岸辺の陣営に延焼した。しばらくすると煙や炎が天に漲り、人馬のうち焼けたり溺れたりして死ぬ者は非常に多かった。軍はついに敗退し、引き返して南郡に楯籠った。劉備周瑜らと再び一緒になって追走すると、曹公は曹仁らを江陵城の守備に残して、まっすぐ自分は北方へ帰っていった。

周瑜伝』注引『江表伝』
戦いの日、黄蓋はあらかじめ快速船十艘を選び、乾燥した荻や柴をその中に積載し、魚膏を注いで赤い幔幕で覆い、旌旗・龍幡を船上に建てた。時に東南の風は激しく、そこで十艘を先頭に立てて、長江の真ん中で帆を挙げた。黄蓋は火を掲げて将校たちに告げ、兵士どもに声をそろえて叫ばせた。「降服だ!」曹操の軍人たちはみな陣営を出て立ち見したが、北軍を去ること二里余りのところで、時を同じくして火の手が挙がった。火は激しく風は猛り、向かってくる船は箭の如く、埃は飛んで絶爛し、北方の船を焼き尽くして岸辺の陣営まで延焼した。周瑜らが軽装の精鋭を率いてその後方から押し寄せ、太鼓を雷して大いに進撃すると、北軍は大壊滅して曹公は撤退逃走した。

『程普伝』
周瑜とともに左右の督となり、烏林において曹公(曹操)を打ち破り、さらに南郡へ進攻して曹仁を敗走させた。

黄蓋伝』
建安年間(一九六〜二二〇)、周瑜に従って赤壁で曹公(曹操)を防ぎ、策略を立てて火攻めを行った。記載は『周瑜伝』にある。

黄蓋伝』注引『呉書』
赤壁の戦役において黄蓋は流れ矢に当たり、寒い時期であるのに川へ墜落した。

『先主伝』
先主は樊に駐屯していて曹操の突然の到来を知らず、宛まで来たところで初めてそれを聞き、手勢を率いて退去した。襄陽を通りがかったとき、諸葛亮は劉�を攻めれば荊州を領有することが可能だと先主を説得した。先主は言った。「吾には堪えられぬ。」そこで馬を止めて劉�を呼んだが、劉�は恐怖のあまり立つことができなかった。劉�の左右(側近)および荊州人の多くが先主に帰服した。当陽に着くころには人数十万余り、輜重数千両にもなっており、一日の行程は(わずか)十里余りであった。別働隊として関羽には数百艘の船に乗せ、江陵で落ち合うことにした。ある人が先主に告げた。「急行して江陵に楯籠るべきです。いま多くの人数を抱えてはおりますが、甲冑を着けた者は少ないのです。もし曹公の軍勢が来たならば、どうやって防げましょう?」先主は言った。「そもそも大事を成し遂げるためには人民を根本とせねばならん。いま人々が吾を頼りにしてくれたからには、吾はどうして見捨てて逃げることができよう!」曹公は、江陵に軍需物資があることから、先主がその地を占拠することを恐れ、輜重車を手放し、行軍を軽くして襄陽に到達した。先主がすでに通り過ぎたあとだと聞くと、曹公は精鋭五千騎を率いて猛追し、一日一夜で三百里余りも進み、当陽の長阪にて追い付いた。先主は妻子を棄て、諸葛亮張飛趙雲らの数十騎とともに逃走し、曹公はその人数や輜重を盛大に鹵獲した。先主は(街道を)それて漢津へ馳せ付けうまい具合に関羽の船団と出くわしたので、沔水を渡ることができた。劉表の長子である江夏太守劉�の軍勢一万余りと遭遇し、同道して夏口に到着した。先主は諸葛亮を派遣して孫権と手を結び、孫権周瑜・程普らの水軍数万人を派遣して先主に合力させ、赤壁において曹公と対戦し、これを大いに打ち破り、その艦船を焼き払った。先主は呉の軍勢とともに水陸両道から一斉に進み、追撃して南郡まで到達した。このときはまた疫病の流行もあって、北軍では多数の死者を出していたため、曹公は引き揚げていった。

『先主伝』注引『江表伝』
孫権魯粛を派遣して劉表の二人の子に弔意を伝え、同時に劉備との盟約を結ばせることにした。魯粛がまだ到着しないうちに、曹公はすでに漢津を渡っていた。魯粛はそこで先に進み、当陽に来たところで劉備に行き会った。そこで孫権の意向を伝えて、天下の情勢について議論し、誠意を尽くした。(…)劉備はいたく喜び、鄂県まで進んで住まると、即日、諸葛亮魯粛に付けて孫権のもとへ参詣させ、同盟の契りを結ばせた。(…)諸葛亮が呉を参詣してまだ帰らぬうちに、劉備は曹公の軍勢が(川を)下ると聞いて恐怖し、日ごとに川へ邏の役人を出して孫権軍(の到着)を眺めさせた。役人は周瑜の船を遠くに見付けると、馬を飛ばして劉備に報告した。劉備が「どうしてそれを青・徐の軍勢でないと分かったのか?」と言うと、役人は「船をみて分かりました」と答えた。劉備は人をやって彼らを慰労した。(…)劉備関羽張飛に「彼らは我を呼び付けようとする。我はいま自分から東方と結託したのだから、行かねば同盟の意図に反することになる」と告げ、単舸に乗って周瑜に会いに行き、「ただいま曹公を防ぐにあたり、計略をお持ちのことと存じます。兵卒はいかほどでございますか?」と訊ねた。周瑜が「三万人です」と言ったので、劉備が「少ないのが心残りです」と言うと、周瑜は「これで充分です。予州どのはただ周瑜が奴らを打ち破るのをご覧いただくだけで結構です」と言った。劉備魯粛らを呼んで一緒に語り合いたいと思ったが、周瑜が「ご命令を受けたからには勝手に署を委てるわけには参りませぬ。子敬とお会いになりたければ、改めてお過しください。それに孔明どのも一緒にお出でになりましたので、三日もせぬうちに参るでありましょう」と言ったので、劉備はいたく恥ずかしく思い、周瑜に一目置きはしたが、それでも内心、北軍を必ず撃破できるとは信じられなかった。そのため後方に下がって、二千人を率いて関羽張飛を伴い、周瑜に協力しようとはしなかった。おそらく(戦況に合わせて)進退できるように考えていたのであろう。

後漢紀』
九月、劉�が曹操に降伏した。劉備が軍勢を率いて南方へ向かったので、曹操は精鋭騎兵でもってこれを追撃し、当陽で追いついた。劉備諸葛亮らの数十騎とともに斜めに漢津へと走った。(…)曹操荊州水軍十万人を手に入れ、川を下って東方を征伐しようとしたので、呉の人々は震えおののいた。(…)劉備が夏口まで到達すると、諸葛亮が言った。「緊急事態です。孫将軍に救援を求めたく存じます。」このとき孫権は柴桑に駐屯しており、劉備諸葛亮孫権を説得させた。(…)孫権は大いに喜び、即日、周瑜に水軍三万人を率いさせ、諸葛亮とともに劉備に参詣させ、協力して曹操を防ぐこととした。(…)十二月、(…)この月、曹操赤壁において周瑜と戦い、曹操軍が大敗した。

諸葛亮伝』
先主が夏口まで到達したとき、諸葛亮が言った。「緊急事態です。ご命令を奉じて孫将軍に救援を求めたく存じます。」ときに孫権は柴桑にあって軍勢を擁しながら、勝敗を見守っていたので、諸葛亮孫権を説得した。「予州さまの軍勢は長阪で破れはいたしましたが、いま戻ってきた兵士と関羽水軍の武装兵が一万人、劉�が江夏の兵士を吸収しており、これも一万人は下りません。曹操の軍勢は遠くから来たので疲弊しており、聞けば、予州さまを追撃するのに軽騎兵を一昼夜で三百里以上も進ませたとか。いわゆる『強弩の末、勢い、魯縞を穿つにあたわず』というもの。それゆえ兵法はこれを嫌い、『必ず、上将軍たおる』と述べております。しかも北方の人々は水上戦になれておらず、そのうえ荊州の民衆で曹操に味方した者も、軍事情勢に迫られたからであって心服しているわけではありませぬ。」(…)孫権は大いに喜び、即日、周瑜・程普・魯粛らの水軍三万人を派遣し、諸葛亮とともに先主に参詣させ、協力して曹公を防ぐこととした。曹公は赤壁において敗北し、軍勢をまとめて鄴へ帰還した。

関羽伝』
先主に従って劉表に身を寄せた。劉表が卒去すると曹公が荊州を平定したので、先主は樊から南に行って長江を渡ろうとし、別途、関羽を数百艘の船に乗せて江陵で落ち合うことにした。曹公が追走して当陽の長阪に到達すると、先主は横道をとって漢津に向かい、ちょうど関羽の船団と行き合ったので、一緒になって夏口に到着した。孫権は軍勢を派遣し、先主を救援して曹公に対抗させると、曹公は軍勢を引き揚げて帰還した。