朱祜なの朱祐なの

後漢の功臣・朱祜の名が朱祐とも書かれる件について。

後漢書』朱祐伝
朱祐の字は仲先といい、南陽宛の人である。

章懐太子注
『東観記』に言う。‘祐’を‘福’と作ったのは、安帝の諱を避けるためである。

集解
劉攽は言う。「注に引く『東観記』に安帝の諱とあることから考えると、つまりこの人物は‘祜’という名だったはずで、(‘祐’とするのは)前後してみな間違っているのだ。」
王先謙は言う。「『(通鑑)考異』に言う。『范書』『袁紀』は‘祜’をみな‘祐’と作っており、『東観記』はみな‘福’と作っている。安帝の諱‘祜’を避けているのだ。『説文』には‘祜’の字に解釈を付けておらず、陛下の諱だと言っている。さすれば朱祜の名は示偏に‘古’、古今の‘古’と作るべきであって、左右の‘右’と作るべきではないのだ。…と。思うに『考異』の主張はまことに明晰である。いま『范書』を刊行するにあたり、‘祐’と作って本来の形を残しておく。」

つまり朱祜とするが正解なのだが、のちの後漢皇帝・安帝が姓名を劉祜といったため、史書ではその諱を避けて朱祐(朱福)と表記されたということ。東晋時代に書かれた袁宏『後漢紀』、劉宋時代に書かれた范曄『後漢書』は、安帝の諱を避ける必要がなかったが、おそらくベースとした史書を踏襲したのだろう。