光武帝紀19 「三人の英傑」

鮑永・卓茂という二人の英傑が劉秀陣営に加わり、もう一人の英傑、竇融は隗囂とともに西方に割拠しました。一方、呉漢・岑彭は洛陽を取りかこみ、ついに朱鮪を降します。


隗囂*1は天水*2に逃れると、ふたたび自分の兵士たちを集め、西州大将軍*3と自称した。長安*4はもう崩壊しており、士人*5たちの多くが隴西*6に逃げてきたので、隗囂はへりくだって彼らを接待した。谷恭*7・范逡*8を師友*9とし、趙秉*10・鄭興*11を祭酒*12、申屠剛*13・杜林*14を治書*15、王遵*16・周宗*17・楊広*18・王元*19を将帥とした。

このころから竇融*20が河西*21地方を占拠しはじめた。竇融は字*22を周公*23といい、右扶風*24平陵*25の人である。実家は貧しかったが、若いころ驃騎将軍*26王舜*27の令史*28となり、さまざまな人物と交流を広めた。妹が大司空*29王邑*30の側室になった。貴族や外戚のところに出入りし、豪傑たちと交わりを結び、任侠でもって名を知られたが、母や兄にはよく仕え、幼い弟を育て、家では立派な振るまいであった。

漢軍が挙兵すると、竇融は王邑に従軍したが昆陽*31で敗北した。漢軍が新豊*32を奪ったとき、竇融を任用すべきだと王邑が勧めたので、王莽*33は、竇融を波水将軍*34に任じて黄金千金を与え、新豊の軍兵を引きあげさせた。期せずして三輔*35が内部崩壊したため、竇融は大司馬*36趙萌*37に降伏した。趙萌は竇融を校尉*38に取りたて、彼をこよなく尊重した。(趙萌が)更始帝*39に推挙したので、竇融は鉅鹿*40太守*41を拝命した。

竇融は、更始帝が即位したあと東方が混乱したのを目にした。竇融の祖父は張掖*42太守、従祖父*43は護羌校尉*44、従弟はむかし武威*45太守であって、何世代も河西地方にいたので、その地の風俗を知っていた。竇融はその地のことが懐かしく、兄弟たちに言った。「天下の安否は予測できないが、河西の人民は富みさかえ、黄河を抱いて要害としている。張掖属国*46の精鋭は一万騎もあるから、それを手に入れて世事を逃れようと思う。なにか事件が起こったときに黄河の渡し場を遮断すれば、自衛することが可能だ。これこそ子孫を残す本当のやり方だ。」兄弟たちもみな賛成した。そこで竇融は鉅鹿を辞退して張掖属国の都尉*47にしてほしいと願いいれた。趙萌の口添えによって認められ、竇融は大喜び。家族を連れて西方に向かい、官吏民衆を可愛がり、英雄豪傑と手を結び、羌族*48・胡族*49らを手なずけた。河西はすっかり治まった。

そのころ酒泉*50太守梁統*51・金城*52太守庫鈞*53・張掖都尉史苞*54・酒泉都尉竺曾*55敦煌*56都尉辛彤*57らはみな州郡の英俊、竇融とも旧知の仲だった。更始帝が敗北しそうになると、竇融は梁統らに「天下は混乱して統一されそうにもない。河西は羌族・胡族の地にあって断絶しており、心を合わせねば身を守ることもできまい。策略も武力も対等ならば統率する者がいなくなるので、一人を選んで将軍にしよう。五つの郡を守りあって世間の動きを見るのだ」と相談を持ちかけると、みな「すばらしい」と言った。

そこで、まず太守である梁統を推戴しようとしたところ、梁統は辞退して言った。「むかし陳嬰*58が王位を引きうけなかったのは老母がいたからです。いま梁統は老親を抱えておりますし、人徳も能力も薄っぺらですから、監督者になる資格がございませぬ。」竇融が兵隊の統率者であり、また代々にわたり河西の二千石*59として官吏民衆に慕われていたので、みなで一緒に竇融を推戴し、行河西五郡大将軍事*60とした。

梁統は字を仲寧*61といい、安定*62烏氏*63の人である。若いころから『春秋』*64を学び、法律を好んだ。更始帝の時代に中郎将*65となり、涼州*66を鎮静化させたので、酒泉太守に任じられていた。

ときに武威太守馬期*67・張掖太守任仲*68の両人は仲間もなく孤立していたので、竇融らは相談のうえ手紙を送って説得すると、(両人は)すぐさま印綬を外して退官した。そこで梁統が武威太守、史苞が張掖太守、竺曾が酒泉太守、辛彤が敦煌太守となった。竇融は張掖属国にあって元どおり都尉の職務を受けもち、従事監察*69の官職を設置した。そして太守たちはそれぞれ自分の郡を統治する。(竇融らは)賢者を尊敬して士人を世話し、官吏民衆の気持ちをつかむべく努力したし、乗馬や弓術を練習し、烽火(の手順)を決めた。羌族や胡族が城塞*70を侵犯してきたときは、竇融がみずからこれを撃退し、諸郡がこれを支援し、富みさかえない者はなかった。

さて、むかし更始帝は将軍の鮑永*71に河東*72を鎮撫させ、北進して幷州*73まで行かせた。鮑永は文治道徳を好んだので、将帥でありながら、いつも儒者の衣服をつけて職務にあたった。日ごろから杜陵*74の馮衍*75を尊重していたので、これを謀主*76として力を合わせ、ともに更始帝に仕えていた。

劉秀*77が諫議大夫*78儲伯*79に節*80を持たせて鮑永を招かせると、鮑永は更始帝がまだ健在であるという伝聞を受けていたので、儲伯の節を奪って逮捕し、手かせを付けさせた。使者を長安に行かせたとき初めて、更始帝が殺害された事実を知った。鮑永は声をあげて泣きさけび、哀しみをきわめた。軍隊を解散させ、冠をぬいで馮衍とともに劉秀のもとを訪ねた。劉秀が軍隊はどこかと鮑永に訊ねると、鮑永は座席をすべりおりて「わたくしは更始帝に仕えながら、ご命令を全うできませんでした。どうして軍隊を連れてきて手柄顔ができましょう。だから全て解散させたのです」と言った。劉秀は不満になった。

そのころ魯郡*81に盗賊が多かったので、鮑永が魯郡太守となった。数千人が降伏したが、彭豊*82・虞休*83だけは千人づつを率いて「将軍」と称し、降伏しようとしなかった。鮑永が恩徳礼節をもって何度も説得したが、なかなかうまく事は運ばない。

孔子*84の村落で荊棘*85が勝手に外れ、講堂から門外*86に出ていった。鮑永はそのことに驚き、府丞*87や魯*88の令*89を呼びだして告げた。「いま世の中は難しくなっているのに、村落から訳もなく荊棘が勝手に外れた。それは太守が祭礼を行って悪党どもを誅殺することを、夫子*90が望んでおられるからではないだろうか?」そこで民衆のなかから学問好きを募集し、学校での祭礼を行わせる。祭礼に参加せよと彭豊らを招いたところ、彭豊らは肉や酒を献上してきたが、実は鮑永を暗殺するつもりであった。鮑永はそれを察知し、みずから彭豊らを斬り殺し、残党どもを捕まえた。関内侯*91に封ぜられた。

このとき馮衍がまだ官職にありつけていなかったので、鮑永は言った。「むかし高祖*92は季布*93の罪悪を賞し、丁公*94の功績を罰した。いま明君に出会えたのだから、なにを勿体ぶることがあろう!」馮衍が言った。「隣人の妻を付けねらう者がおりましたが、年かさの妻には罵倒され、若い妻には受けいれられました。突如、隣人が死んで、その人は年かさの妻と結婚します。『お前を罵倒したやつではないかね?』と訊ねられ、『他人のものなら、わたしを受けいれてほしいし、自分のものなら、他人を罵倒してほしいんだよ』と答えました。天命は理解しがたくとも、人道は遵守しやすいもの。道義を遵守する臣下が、どうして死を恐れましょうか?」しばらくして馮衍は曲陽*95の令となり、凶悪な賊徒郭勝*96らを処罰し、五千人あまりを降伏させた。論功行賞により諸侯に封ぜられるべきであったが、讒言のため実行されなかった。

甲申*97、もとの密*98の令である卓茂*99を太傅*100とし、褒徳侯*101に取りたてた。卓茂は字を子康*102といい、南陽*103の人である。温和にして寛容、うやうやしく礼儀を心得ていた。自己を抑えて他人に接し、善悪を兼ねそなえた人物に対しても完全さを要求せず、郷里の老人や若者に対しては、行動に問題があっても、卓茂はわけへだてなく受けいれた。

かつて卓茂の馬(の所有権)を主張する者があり、卓茂が「馬を見失ったのはいつごろですか?」と訊ねると、「一昼夜くらい前だ」とのことであった。卓茂は綱を外して馬を引きわたし、「もし、あなたの馬でなかったら、返していただけると幸いです」と言った。後日、馬の持ち主は(自分の)馬を見つけ、卓茂の家まできて陳謝した。

卓茂は徳行でもって推挙され、侍郎*104、給事黄門*105となり、密の令に昇進した。その統治ぶりは、民衆を我が子のように扱い、善人を推挙して教育し、憎悪を口にすることはなかった。県民のなかに亭長*106に頼んで米や肉をもらった者があった。卓茂が「亭長のほうからお前に要求したのか?お前のほうから頼んで受けとったのか?それとも何もしないのに親切心で与えたのか?」と訊ねると、県民は「歩いていると、くれたので受けとりました」と答えた。卓茂「くれたので受けとったとは、どういうことかね?」県民「君主が賢明ならば、民衆に役人を恐れさせず、役人も奪おうとせず、民衆も与えようとしないものです。」

卓茂「お前はだめな県民だ!だいたい人間が鳥獣よりえらいのは、仁愛でもって尊敬しあうからなのだ。隣組の長老が四季折々の祭礼を行う。そのような気風であってこそ友愛を推進することができる。さもなくば目を吊りあげて睨みあい、憎悪憤怒を生むものだ。役人というのは権力を笠にきて要求してはならぬ。盗賊を取りしまって乱暴者を制止し、喧嘩はさせず、県民に訴訟ごとがあれば善悪をただす。これこそが本当の大手柄というもの。季節ごとの祭礼を行い、顔を合わせる。これまた喜ばしいことではないか?」県民「その通りだとしたら、なぜ規律があるのです?」卓茂「規律は大いなる法をととのえ、礼儀は人情にそうのだ。いまわたしは礼儀をもってお前を教えさとしているから、お前は恨みを持つことがない。規律でもってお前を縛りあげたなら、お前は手足の置きどころもないのだぞ。親戚のうち幼い者は(罪の重さを)計り、成長した者は殺す。さあ、よく考えてみよ!」県民は言った。「まったく君主さまのおっしゃる通りでした。」卓茂が法律でもって県民を教えさとす様子は、みなこうした具合であった。

卓茂が着任した当初、官吏民衆はみな彼を嘲笑し、隣県も府官*107も治績を低く見つもった。河南*108太守が守令*109を派遣したときも、卓茂はいつも通りであった。数年後、教化は大いに行きとどき、路上のものを拾う者もなかった。いなごが発生したとき、河南の二十県はすべて被害にあったのに、密の県境だけは侵入しなかった。

王莽は安漢公*110になると、大司農*111に六部の丞*112を新設して農業を推進した。卓茂が京部*113の丞に昇進すると、(密県の)官吏民衆は老いも若きも路上で泣きさけんだ。王莽が政権を握ると、卓茂は病気を口実に退官した。郡の門下掾*114に指名されたこともあったが、役人になることを承知しなかった。更始帝が即位すると卓茂は侍中*115となり、ともに長安におもむいたが、更始帝のでたらめに気づいて引退を願いでた。(劉秀が卓茂を取りたてたが、)このとき七十歳あまりだった。

さて、呉漢*116は耿弇*117を初めとする十人の将軍を率いて洛陽*118の朱鮪*119を包囲していたが、何ヶ月が経っても陥落させられずにいた。岑彭*120がかつて朱鮪の部下だったので、劉秀は、岑彭に彼を説得させた。朱鮪は城壁の上にあり、岑彭は城壁の下にあり、むかしのように言葉をかけあった。

岑彭は説得して言った。「赤眉*121軍はすでに長安を手に入れ、更始帝は二人の王*122に叛かれました。あなたは誰のために守っておられるのでしょうか?陛下は天命をうけて燕*123・趙*124を平定され、幽*125・冀*126の地をことごとく領有されております。百姓たちは心服して賢者たちは雲集し、賊徒どもを討伐すれば行くさきざきで撃破なされました。いま北方は落ちつき、大軍をもよおして洛陽に攻めよせております。あなたがもし多くの城と連携して守りを固めたとしても、まだ対抗しえないのです。いまは一つの城しかないのですから、なにを期待できましょうか?」

朱鮪が答えた。「大司徒*127どのが殺害されたとき、朱鮪はその計画に参加していました。自分の罪深さをよく知っております。だから降伏しないのです。」劉秀は言った。「そもそも大きな仕事をする者は、小さな恨みに拘らないものだ。いま降伏すれば官職や爵位さえ保障されるのだ。ましてや処刑などあろうものか?黄河はこれにあり*128。わたしは言葉をもてあそばぬ!」岑彭がその言葉を朱鮪に伝えると、辛卯*129、朱鮪が降伏したので、平狄将軍*130・扶溝侯*131に取りたてた。

冬十月の癸丑*132、劉秀は洛陽の宮殿に都をうつした。

十一月、蘇茂*133が降伏した。(蘇茂は)しばらくして劉永*134のもとへ出奔し、劉永はこれを淮陽王*135に取りたてた。

十二月、赤眉軍長安を発ち、西進して郡県を侵略した。

*1:かいごう。群雄の一人。

*2:てんすい。郡名。

*3:せいしゅうだいしょうぐん。

*4:ちょうあん。県名。前漢、新の王莽(おうもう)が都とした地。

*5:しじん。役人になる階級。

*6:ろうせい。地名。隴(ろう)の関所より西側の地域。

*7:こくきょう。

*8:はんしゅん。

*9:しゆう。師匠と朋友。部下として待遇しない。『後漢書』では谷恭を掌野大夫(しょうやたいふ=職掌不明)にしたとする。

*10:ちょうへい。

*11:ていこう。

*12:さいしゅ。官名。議長。

*13:しんとごう。

*14:とりん。

*15:ちしょ。官名。「治書侍御史」(ちしょじぎょし)のこと。検察官。

*16:おうじゅん。

*17:しゅうそう。

*18:ようこう。

*19:おうげん。

*20:とうゆう。群雄の一人。

*21:かせい黄河西岸の砂漠地帯。

*22:あざな。通称。実名を呼ばないのが礼儀とされた。

*23:しゅうこう。

*24:うふふう。郡名。

*25:へいりょう。県名。

*26:ひょうきしょうぐん。官名。驃騎は「足の速い馬」の意。

*27:おうしゅん。『後漢書』李賢注に「王俊とすべし」とあり、恵棟は「王駿とすべし」という。

*28:れいし。官名。

*29:だいしくう。官名。三公の一つ。財政担当の大大臣。

*30:おうゆう。

*31:こんよう。県名。

*32:しんほう。県名。

*33:おうもう。新王朝の皇帝。前漢を滅ぼした。

*34:はすいしょうぐん。官名。波水は地名で、長安の南にある。

*35:さんぽ。首都長安とその周辺。

*36:だいしば。官名。三公の一つ。軍事担当の大大臣。

*37:ちょうほう。

*38:こうい。官名。将校。

*39:こうしてい。劉玄(りゅうげん)のこと。

*40:きょろく。郡名。

*41:たいしゅ。官名。郡の長官。

*42:ちょうえき。郡名。

*43:おおおじ。祖父の兄弟。

*44:ごきょうこうい。官名。羌族対策を担当する将校。

*45:ぶい。郡名。

*46:ちょうえきぞっこく。属国名。張掖郡から分割された特別区

*47:とい。官名。太守の副官。ここでは属国の長官を指す。

*48:きょうぞく。少数民族名。

*49:こぞく。少数民族名。

*50:しゅせん。郡名。

*51:りょうとう。

*52:きんじょう。郡名。

*53:しゃきん。正しくは「厙鈞」。

*54:しほう。

*55:じくそう。

*56:とんこう。郡名。

*57:しんとう。

*58:ちんえい。

*59:にせんせき。俸給として米二千石を受給する高官。

*60:こうかせいごぐんだいしょうぐんじ。「河西の五つの郡の太守と大将軍の職務を代行する」の意。

*61:ちゅうねい。

*62:あんてい。郡名。

*63:うし。県名。

*64:しゅんじゅう。書名。儒教の経典の一つ。

*65:ちゅうろうしょう。官名。将校。

*66:りょうしゅう。州名。

*67:ばき。

*68:じんちゅう。

*69:じゅうじかんさつ。官名。職掌不明。『後漢書』では「従事を設置して五つの郡を監察した」とする。

*70:万里の長城のこと。

*71:ほうえい。

*72:かとう。郡名。

*73:へいしゅう。州名。

*74:とりょう。県名。

*75:ふうえん。

*76:ぼうしゅ。幕僚長。

*77:りゅうしゅう。光武帝(こうぶてい)。後漢創始者

*78:かんぎたいふ。官名。諫言役。

*79:ちょはく。『後漢書』では「儲大伯」とする。

*80:せつ。勅使に与えられる旗。

*81:ろぐん。郡名。

*82:ほうほう。

*83:ぐきゅう。

*84:こうし。儒教創始者

*85:けいきょく。いばら。

*86:部落には垣根がめぐらされていた。

*87:ふじょう。官名。太守の副官。

*88:ろ。県名。

*89:れい。官名。県の長官。世帯数一万以上の県に令、一万未満の県に長を置いた。

*90:ふうし。孔子の尊称。

*91:かんだいこう。領地を持たない諸侯。

*92:こうそ。劉邦(りゅうほう)のこと。前漢創始者

*93:きふ。はじめ項羽(こうう)に仕えて高祖に敵対した。

*94:ていこう。項羽に仕えて高祖を攻めたが、高祖に「なぜ苦しめあうのか?」と言われて見逃した。

*95:きょくよう。県名。

*96:かくしょう。

*97:こうしん。きのえさる。

*98:みつ。県名。

*99:たくぼう。

*100:たいふ。大大臣。皇帝の教育係。

*101:ほうとくこう。「褒徳」を称号とする諸侯。

*102:しこう。

*103:なんよう。郡名。

*104:じろう。官名。

*105:きゅうじこうもん。官名。

*106:ていちょう。官名。駅舎の管理係。

*107:ふかん。郡の役人。

*108:かなん。郡名。

*109:しゅれい。官名。令の監視役のようだが不詳。

*110:あんかんこう。「安漢」を称号とする諸侯。

*111:だいしのう。官名。九卿の一つ。農政を担当する大臣。

*112:じょう。官名。補佐官。

*113:けいぶ。六部の一つ。

*114:もんかえん。官名。

*115:じちゅう。官名。相談役。

*116:ごかん。

*117:こうえん。

*118:らくよう。県名。

*119:しゅい。

*120:しんぽう。

*121:せきび。山東半島の盗賊集団。眉を赤く塗ったことからその名で呼ばれる。

*122:張邛(ちょうきょう)・廖湛(りょうたん)・胡殷(こいん)の三王を指す。

*123:えん。地名。

*124:ちょう。地名。

*125:ゆう。州名。

*126:き。州名。

*127:だいしと。官名。三公の一つ。民政担当の大大臣。ここでは劉秀の兄・劉縯(りゅうえん)を指す。

*128:黄河の神への誓いの言葉。

*129:しんぼう。かのとう。

*130:へいてきしょうぐん。官名。平狄は「狄族(少数民族名)を平定する」の意。

*131:ふこうこう。扶溝を領地とする諸侯。

*132:きちゅう。みずのとうし。

*133:そも。

*134:りゅうえい。

*135:わいようおう。淮陽国の国王。