孫休は暗殺された説

いつものごとくトンデモ説でも披露しとくか。


呉帝の孫休というと学問好き。

学問好きといえば魏帝の曹髦。博士をやりこめるほど才知に長ける。

曹髦といえば司馬氏に弑殺された人。

弑殺といえば殷の紂王。

紂王といえば学問好き。諫言をやりこめるほど才知に長ける。

不徳の君主は学問好きというステレオタイプが形成されている。

曹髦の人物像は司馬氏の史書によって紂王に重ねられている。

呉志の孫休像はそれにたがわず学問好きということにされている。

呉志は韋昭の史書がもとになっている。

韋昭は孫晧の時代に史書を書いた。

孫休の学問好きを史書に書かせたのは孫晧

孫晧は孫休に次いで帝位に登った人。

孫晧は先代の孫休の人物像を殷の紂王に重ねたかった。

なぜなら孫晧が政変によって登場した皇帝だったから。

でも孫晧はそのころ地方にいて政変には関与できなかったはず。

孫晧を迎えいれた朝廷の群臣が怪しい。

そういえば孫休って前ぶれもなく突然死んでるよねー。

孫休は群臣によって暗殺された。


井沢元彦さんの小説に掲載されないかなー。