東郷平八郎

【誰か昭和を想わざる】国民的人気の東郷元帥
やがて東郷元帥自身、老齢のために、すでに第一線をとっくに退いたにも関わらず見境がなくなって他人に煽られると海軍人事などにも口を出すようになり、神格化されてしまったために海軍側でも東郷元帥をいさめる者も出ず、無視も出来ず、皆、頭をいためていたという。もともと頑迷固陋の定評とおり、政治や現実分析に明るい人ではなかった。東郷元帥は時代遅れの大艦巨砲主義を信奉する人々に担がれたり、現場が混乱するような活動ばかりその晩年はしていたらしい。東郷元帥にしてみれば孫ほども年の離れた若手将校らが自分を頼りにやって来るのが可愛くも嬉しくもあって舞い上がっていたのかもしれない。

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死ぬ2、3年前には麹町の家の近くに、2と7のつく日の夏の夜には夜店が出たため、孫娘と一緒に金魚掬いなどを見物する東郷元帥の姿が近所の人に見られている。近所の人に声をかけられると、小倉の袴に木綿の一重姿の東郷元帥は相好を崩して笑顔であいさつを返すのが常だった。病気になってからも部屋から塀越しに表の東郷坂を通る人を眺めている東郷元帥の姿が見られたという。昭和初期の80代というのは現在ならさしずめ100歳ぐらいのイメージである。そういう意味でも「神様」に近いような存在であったかもしれない。東郷坂から東郷元帥の白ひげが見えるので通行人があいさつすると、東郷元帥は部屋の中から非常に嬉しそうにあいさつを返すので、界隈では有名な話であったようである。

 東郷元帥は「自分の事は自分で」という軍隊時代の癖がぬけず、晩年も洗濯物などは自分で風呂で洗ってしまい、着物がタンスのどこにあるかもわかっていて、自ら七輪を運んできて女中に料理の秘訣を教えるなどもしていた。女中がどんな不始末をしても一切、怒ったり文句を言う事もなかった。東郷元帥が病気で寝込んでからは、家族は三味線などを枕元で鳴らして東郷元帥を慰めた。家庭では東郷元帥は世話のかからないお爺さん、近所の評判も軍人、元帥といった厳めしいイメージを裏切るような、好々爺といった感じであったようだ。

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また東郷元帥は軍人にしては涙もろい男だった。小笠原子爵邸で日本海海戦にヒントを得たという映画「ラ・バタイユ」を観た際、東郷元帥は海戦のシーンで甲板で兵士が倒れるところを目にして、手のひらで顔を覆って号泣、「いたたまれない」と席を中座した事もあった。