臨沮

馬超の墓の続き。墓というか馬超の任地について。

三国志』彭羕伝
(原文)羕於獄中與諸葛亮書曰:「……至於内外之言,欲使孟起立功北州,戮力主公,共討曹操耳,寧敢有他志邪?」
(訳文)彭羕は獄中から諸葛亮に手紙を送った。「……"内外"という言葉については、馬超には北方の州で功績を立てさせ、ご主君と力を合わせて共に曹操を討とうとしただけです。どうして異心など抱きえましょうや?」

彭羕が左遷されて中央政府から外されたとき、かれは馬超を北方で功績を立てるべき武将だと考えていた。もし馬超の駐屯地が荊州方面であったならば、「北州」という言葉は出てこなかっただろう。

三国志李厳
(原文)亮公文上尚書曰:「……聞軍臨至,西嚮託疾還沮﹑漳,軍臨至沮,復還江陽,平參軍狐忠勤諫乃止.」
(訳文)諸葛亮は公開文書を尚書台にたてまつって述べた。「……(李平は)軍隊が到着したと聞くや、西方に向かい、病気にかこつけて沮・漳に戻り、軍隊が沮に到着すると、さらに江陽に戻ろうとし、李平の参軍である狐忠が切々と諫めて、ようやく思いとどまったのです。」

当時、李厳(李平)は漢中、諸葛亮は西方の祁山にいた。沮・漳は漢中の西、祁山の東にあったことになる。沮・漳という2つの地名について、盧弼の『集解』は「いずれも呉の領土であり、誤記の可能性がある」と言うが、ここで沮といっているのは武都郡の沮県のことだろう。漳については不詳。

諸葛亮が祁山から引きあげてくると聞いて、李厳は漢中から出馬、沮県に入城して諸葛亮を防ごうとしたのである。沮県に西方からの侵入に備えた防壁があったことが窺える。

江陽

もう一点、本題から外れるが、ここで江陽なる地名が現れることも興味深い。蜀の江陽郡はもともと犍為郡から派生したもので、その名のとおり長江沿岸に位置する。漢中から望めばはるか南方であり、李厳が目指すにはかなり無理のある場所である。もし書写の間違いでなければ、漢中に近く、江陽郡とは別の江陽があったのかもしれない。

そこで思いおこされるのが『趙雲別伝』の記述である。

三国志趙雲伝注引『趙雲別伝』
(原文)公軍追至圍,此時沔陽長張翼在雲圍内,翼欲閉門拒守,而雲入營,更大開門,偃旗息鼓.公軍疑雲有伏兵,引去.
(訳文)曹公の軍隊が追って陣営に迫ってきた。このとき沔陽の長である張翼趙雲の陣営内にいたが、張翼が陣門を閉ざして守備しようとすると、趙雲は陣営に入るとわざわざ陣門を大きく開き、軍旗を伏せて太鼓を休ませた。曹公の軍隊は、趙雲が伏兵を擁しているであろうと疑い、引きはらった。

ここで登場する張翼は沔陽の長とある。ところが張翼の本伝に沔陽の地名は見られず、代わりに江陽とある。

三国志張翼
(原文)建安末,舉孝廉,為江陽長,徙涪陵令,遷梓潼太守,累遷至廣漢﹑蜀郡太守.
(訳文)建安年間(一九六〜二二〇)の末期、孝廉に推挙されて江陽の長となり、涪陵の令に異動、梓潼太守に昇進し、昇進を重ねて広漢、蜀郡太守となった。

張翼は犍為郡の出身なのであるから、江陽の長になったというのは、いかにもありそうな話である。しかし趙雲が曹軍と戦ったとされるのは漢中でのことであり、そこから考えると江陽とするより沔陽とするほうが辻褄に合っている。思うに、漢中郡の沔陽は一時期、江陽と呼ばれることがあったのではないだろうか。そして、沮県を去った李厳が入城しようとした江陽とは、この漢中の江陽のことではないだろうか。