根拠が大切

毎度のことながら、ブチ切れそうになる(笑)。

739 :世界@名無史さん:2008/10/14(火) 21:44:31 0
>>737
右大将軍は大将軍を左右に分けたんじゃなくて大将軍格の右将軍だ
征西大将軍とかと同じ
http://academy6.2ch.net/test/read.html/whis/1182753143/739

閻宇の右大将軍ってのは蜀の官制のなかでもとりわけ謎な号なんで、どうしても語るに推測を交えざるをえないわけだけど、なんの根拠も示さず自分の推測でもって他人の見解を否定するってスタンスに虫酸が走る。うああぁぁ〜ってなる(笑)。なぜか閻宇の号は右将軍の資を重んじたものだーって主張してる人に特徴的に見られるんだよね。

で、それはともかく、その見解の是非について見てみると、まずその主張に一貫性を求めるならば前大将軍、後大将軍、左大将軍の存在を前提としなければならない。ところが管見のかぎり史料では蜀漢にそのような号が存在した形跡は見られない。*1とすれば、なにを根拠にそのような推測が可能になるのか……ということになってしまう。根拠があるならばそれを推測として扱うことができるけれども、根拠がなければ推測ですらない。妄想だ。


用例を調べるだけなら中研院で手軽に検索できるわけだから、あれこれ妄想するひまがあったらさっさと検索すればいい。そこで検索してみた結果が以下のとおり。

後大将軍邳彤後漢書邳彤傳:即日拜彤為後大將軍,和成太守如故,使將兵居前。もと和成太守、のち太常。
左大将軍匈奴単于漢書孝宣功臣表:信成侯王定,匈奴烏桓屠驀單于子左大將軍率衆降,侯。匈奴の称号なので参考にならない。
任光後漢書任光傳:拜光為左大將軍,封武成侯。もと偏将軍・信都太守。校勘記に『水経注』では「大」の字なしとある。
苻生晉書苻生載記:以呂婆樓為侍中﹑左大將軍。『晋書』呂光載記、『魏書』呂光伝に苻堅の太尉とある。
李礼成北史李暠傳:累遷襄州總管﹑左衞大將軍。校勘記は諸書に「衞」の字なしとする。ただし『隋書』李礼成伝によると左衛大将軍から右武衛大将軍に昇進し、左衛大将軍に再任した。
右大将軍李忠後漢書李忠傳:忠遂與任光同奉世祖,以為右大將軍,封武固侯。もとは信都都尉。のちに五官中郎将を拝したとある。校勘記に『東観記』では「大」の字なしとある。
楊安晉書苻堅載記:堅以安為右大將軍,益州牧,鎭成都同載記ではこれ以前に前将軍だったとあり、『魏書』では右将軍だったとある。

前大将軍は二十四史に用例なし。左大将軍のうち李礼成は左衛大将軍が正しいようだし、単于の子も除外するのが妥当(左賢王の訳語の揺れか)。このほか「領左右大将軍」なんてのがあるけど、これはこれで独立した将軍号なのでここには含めない。とすると、あんまり用例がないなあ。

後漢の任光、李忠、邳彤についてはよく分からないところがあって、光武帝は生涯を通じて某大将軍を濫発しており、ここでも邳彤を後大将軍の官職に任じたとしているように見える。ところが李忠は右大将軍から五官中郎将に遷っているし、三十二将次第では邳彤に肩をならべる任光を信都太守、李忠を予章太守とするに過ぎない。それならば、この三人は官制上の将軍号としてそれらを与えられたのではなく、単に、任光が左翼の指揮、李忠が右翼の指揮を担ったことを指しているだけではないか。そう考える方が『東観記』『水経注』の表記の揺れも理解しやすい。しかし、だとすると前居した(先鋒を委ねられた)邳彤が後大将軍と呼ばれた理由に説明がつかなくなってしまう。

苻生に関しては分かりやすい話で、左大将軍をへて太尉になったわけだから、この左大将軍というのは左将軍に資を与えたものと解釈できそう。大将軍のほうが太尉より高位なので、もし大将軍になっていたら太尉とは書かず大将軍と書いてたはずだからね。

楊安はやや微妙なところがあり、総合すると前将軍から右将軍、右大将軍に昇進したように見えるが、もし前将軍が右将軍より高位であるとすれば、『晋書』にいう右大将軍と『魏書』にいう右将軍が同じものを指している可能性が強くなる。そうでなければ、右大将軍は右将軍の資を重くしたものと解することができるだろうと思う。


と、ここまで書いたところで、「じゃーやっぱり閻宇は重資の右将軍じゃないかー」とか言っちゃう人が出てくるかもしれない。ところがぎっちょん、それは早計というもので、なかなかそうとは言いきれない部分があってややこしいところ。政治的情勢や史家の意図といった文脈をくんでいかなければならなかったりする。

そもそも、黄皓姜維を廃して閻宇を立てようとしてるんだから、閻宇にはそれなりの位階があったと見なければならないはずだ。ともに大将軍なればこそそれが成りたつ、というわけ。閻宇がたかだか右将軍か、それに毛が生えた程度のものなら、車騎将軍の張翼廖化、衛将軍の諸葛瞻らを担いだ方がてっとりばやい。

『華陽国志』後主志では、景耀二年に張翼が左車騎将軍、廖化が右車騎将軍に任じられたことを書き、このとき閻宇が右(衛)大将軍だった、としている。車騎将軍が左右に分割されたことを記し、それと同時に閻宇の号に言及しているのは、大将軍が左右に分割されたことを常璩が示そうとしたから、と考えるのが自然ではないかな。

『晋書』羅憲伝には大将軍とある。一方『呉書』朱績伝には右将軍とある。『華陽国志』では右衛大将軍だ。まずだいいちに彼の号を右大将軍とする伝からして疑わしい部分があったりするわけで、その辺の問題から考慮していかないと足場が定まらない。


まあ、なんにせよ、なにか主張するとき根拠を明らかにするとしないとでは説得力に格段の違いが出るよ、てゆーか、他人の見解を否定するならまず自己の見解の根拠を明示せなあかんよ、ということで。*2

*1:やや弱いが驃騎大将軍、車騎大将軍、衛大将軍の提示でもまあ傍証にはなりうるかな。出ないけど。

*2:論点を誤解して、閻宇がいかに大将軍でありえないかを力説する人が続出すると予想(笑)。