益州閥

劉備が入蜀したあと、ほとんどの要職に荊州人があてられ、益州人は閑却されていた。

益州人で重用されたといえばせいぜい黄権くらいしかいない。黄権荊州人と比較してもかなりの厚遇で、なぜこれだけ重んじられたのかよく分からない。とにかく一介の県長から出しぬけに偏将軍に取りたてられ、劉備と同格になった。

黄権に次いで目立つのが張裔だろうか。諸葛亮の時代、丞相長史に取りたてられている。この長史の職は現在でいう官房長官に相当し、丞相の諸葛亮が在府していればその補佐として、在府してなければその代理として奔走する要職中の要職。黄権を除けば益州人の出世頭といえる。

このほか彭羕もいい線まで行っていた。劉備の入蜀で益州の治中従事となり、決して官位は高くないが、益州といえば劉備の支配領域とほぼ重なっているので、全土の行政権をにぎったと言っていい。のちに江陽太守に遠ざけられたとはいえ、官位は上がっているので、すこし我慢すれば侍中、尚書、あるいは丞相参軍クラスとして中央政界に華々しく凱旋帰国できていたかもしれない。

よく誤解されるのが李厳で、かれを益州閥の惣領と書いてあることも多いが、李厳はもともと荊州人。かれが益州人の世論を代表したという証拠もない。また、法正なども、扶風出身であって益州人ではない。

このあと益州人が公卿クラスに出世するのは馬忠まで待たねばならない。官位だけでいえば王平張翼を入れてもよさそうだが、いずれも武人に過ぎないので、政権内における発言力という点でいえばかなり疑問である。