ジェネラリストにふたたび光を

いま経済苦から首を吊ろうとしている人がいるとして、政治家が景気回復を約束したところで何の意味があるでしょうか。そういうものは時間をかけてやるものですが、首を吊ろうとしている人は今日明日の生活に困窮しているのです。その人がじっさい飢えているなら、いまさら魚釣りのやり方を教えている場合ではないのです。すぐに魚を与えなければその人は死んでしまうのです。


しかし当座の生活費を与え、魚を与えて、それだけで終わってしまってよいものでしょうか? みじかい時間でみればお金や魚を与えることは絶対的に正しい。ですが、いつまでもいつまでも延々と与えつづけるべきでしょうか? その場にあたっての対策と、ながい目でみた政策、どちらも必要なのです。時間の長短だけでなく、範囲の広狭の違いもあるでしょう。


わたしたちは専門家ではなく一般人(総合家。以下、読みやすさの都合で「一般」といったり「総合」といったりしていますが基本的に同じような意味だと受けとってください)なのですから、一般人の立場からものごとを見なければいけません。というよりは、専門の知識もないし技能もないし権限もないのですから、専門家として物言うことはできないはずです。専門家には専門家の領分があり、一般人には一般人の領分があります。どちらがえらいということではありません。立場や目的が違うということです。それぞれの得意とするところを簡単にまとめてみました。

専門家 (specialist) 総合家(generalist)
主義 現実主義 理想主義
範囲 個別、特殊、局所 普遍、一般、全体
対象 個人、地域、私 社会、国家、公
時期 現在、対症的 未来、予防的
span 短期、臨時 長期、恒久
所在 現場 論壇、議会、会議室
指向 bottom up、外向 top down、内向
役割 実務、行動、交渉 議論、決定、説得
長所 知識、技能 見識、バランス感覚
職業 学者、士業、官僚 経営者、政治家


これはごくごく大ざっぱなもので、もちろん実際には各特性が両カテゴリの垣根をまたがる場合も多いはずですし、また、ひとりの人物が両方をかねる場合もあれば、状況によって一方から他方へと立場をうつす場合もあります。ある分野における専門家でも、また別の分野では一般人として振るまわざるをえないでしょう。ほとんどの人は、本職の場では専門家、それ以外の場では一般人として振るまっているはずです。


専門家と一般人はそれぞれの得意分野に応じて住みわけをしています。一般人がその知識も能力もないのに専門家の領域に足を踏みいれたりすることは好ましいことではありません。それよりも専門家の見解に耳を傾けることです。また同じように、専門家がその立場の違いをわきまえず一般人の領域に足を踏みいれることも好ましくありません。専門家は総合的な視野を持てないので、分野のなかで正しいことが一般的にも正しいかどうかを判断することができません(実際には一般人の立場もかねているので、その違いさえわきまえていれば一般人としての判断は可能です。そこに専門家の立場を持ちこまないように注意)。


わたしが近ごろ問題だなと感じているのは、専門性を重んずるかたわらで一般性を軽んずる傾向がありませんか、ということです。一般人が専門性を尊重できることは幸いであり喜ぶべきことです。ただし、それは一般性を軽視してよいことを意味しません。わたしたちはたいがい一般人として振るまわざるをえないのですから、一般人の領分を守りつつ、そのうえで専門家の見解を取りいれるべきです。一般人であるのに、一般人としての立場を忘れたり、専門家のフリをしてはいけないのです。


専門家の見解と、総合家の見解は往々にして矛盾しがちです。どちらが間違っているということではなく、それぞれの立場からそれぞれの正義を主張しているにすぎません。専門家が総合的な判断を批判するのはその立場上、当然のことです。しかし一般的な立場にあるべき人が、専門家と一緒になって総合的な判断を否定するというのは、おかしなことです。専門家が専門の立場から発言するのと同じように、一般人も一般の立場から発言するべきでしょう。


このあたりの議論は、id:fuku33先生のブログに詳しいはずです。かれのブログで「全体最適」「現場主義」などのキーワードを検索してみてください。


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