2010年08月01日のつぶやき
経営者がリスクを避けようとするのは当然だが、自分では避けるリスクを、取引先へ一方的に負わせて「WIn-Winの関係で」ってふざけんなよ。終わってる。それでうかうかと乗ってくる取引先もどうかと思うがw
posted at 23:23:52
@EqualofHeaven おお、そうでしたか。魯迅もちゃんと読まないとなあ…。たしかに孔明は、知者というより魔術師ですからね。よく漫画に出てくる IQ200 の間抜けみたいなもんで、触れ込みに見合う行動をしないという。
posted at 22:40:51
RT @francesco3: 別姓によって生まれかねない差別があるからどうこうって、おまえが差別する気満々なだけだろっていう
posted at 21:02:04
「玉泉寺の開基が關羽に關係していた、あるいはそういう傳説が後世流布していたことは間違いない。『演義』はこのような傳説に基づいたものと思われる。」http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/cl/koten/ueno/iseki6.htm
posted at 19:22:48
@ritsuchubun_mas ああ、わざわざお手を煩わせてしまい恐れいります。さきほど所在を確認いたしました。ありがとうございます。
posted at 19:17:16
@uni313 そうですね。さきほど触れたような曹操を天とする見方からすると、劉禅は、孔明や姜維の仰ぐべき天の不在、不甲斐なさを表しているような存在ですね。君は、しばしば父にたとえられる役割ですから。
posted at 19:15:06
というのは、もちろん羅貫中の仕込みだけどね。先行作品の『平話』では最後の最後まで、孔明は物語を掻き乱しつづけている。曹氏の滅亡も前趙の劉淵の登場もすべて孔明の差し金ということになっている。
posted at 19:03:13
蜀漢は圧倒的に劣勢であり、どうがんばっても戦況は易々と覆りそうもなかったのだから、戦況は動かないまでも、せめて物語だけは動くような態勢作りが孔明には必要だった。孔明はそれをしなかったのだから、かれの悲劇的な死は、物語上では自業自得であると言える。
posted at 15:42:22
曹操はすなわち戦況であり、物語であった。曹操が動けば戦況が動き、物語が動く。これに応じて劉備が動けばまた戦況が動き、物語が動く。ところが孔明はどう足掻いても戦況を動かせず、物語を動かすことができない。つまり孔明の敗因は、戦況=物語という物語構造を変革できなかったことにある。
posted at 15:38:40
孔明は、劉備のあとを継いでから死ぬまでのあいだ、物語に糸くずほどの変化さえ起こしていない。ただひたすら出征しては敗退する。延々とその繰りかえしである。まるで時間旅行をして同じ過去を何度もやり直しているかのように。出だしからすでに嵌められている。
posted at 15:35:57
孔明は、父である曹操、叔父である劉備と、生涯に乗りこえるべき二人の偉人を持っていた。そして、それが果たせぬまま死んでしまうから悲劇的なのだ。曹操のように物語をつむぐことも、それを劉備のように掻き乱すこともできず、物語の構造になんら抵抗できぬまま、おのれの非力さを悔やみながら死ぬ。
posted at 15:19:06
孔明が死んで姜維の代になるとなおさら白けるというのも道理で、まだしも孔明は曹操と同時代を生きていたが、姜維はまったく曹操の時代を知らないのだから孔明以上に孤独な戦いをしている。それこそ戦うために戦っているかのように。それが羅貫中の意図であるなら天才としか言いようがない。
posted at 15:12:51
戦前の日本人に孔明の戦いがウケたというのは、その虚像を「天命」と位置付けて過度に観念化することにより、むしろ天命を味方に付けたという錯覚に満足していたのかもしれない。しかし物語の構造的には宿敵である曹操の残影なのであった。
posted at 15:08:35
曹操は物語において、天をおおうような絶対的存在であるから、かれの死は、物語が天を失うことを意味する。劉備は曹操という偉大な「父」と戦ったが、では孔明はだれと戦っていたのか。そこに居もしない敵の虚像と独り相撲するだけである。
posted at 15:00:50
『演義』における曹操は圧倒的で完全な巨人であって、劉備は巨人の威におののく小心者にすぎない。曹操に招かれた劉備は、親父に怒鳴りつけられた子どものように戦慄する。曹操が劉備を英雄と呼んだとき、劉備は死の危険に直面して恐怖すると同時に、内心、天にも昇るような嬉しさで一杯になる。
posted at 14:49:53
だから、そういう曹操を主人公にしてしまうと物語が平板になるのは当然。なんてったって曹操は主軸であって、かれ自身は不動、普遍的な存在なんだから。神の視座から見下ろす人類史が面白くもなんともないのと同じことで、運命に抗う人間をその視点から描いてこそ初めて面白くなる。
posted at 14:43:56
『演義』において曹操は物語の主軸となっていて、曹操がああしたから劉備がこうした、曹操がどうだから劉備はこうだと、あらゆる点で曹操がつねに先立ち、劉備がそれに応えるという関係のまま物語は語られる。曹操は絶対的、完全なる悪であり、父であり、知者であり、英雄である。
posted at 14:38:27
華容道なんかより英雄論のほうがよほど面白い。曹操の巨悪を発端として、劉備の義憤があり、殺意があり、それが露見したかとの疑念、サスペンス、ところが気付かぬ曹操の迂闊さ、英雄論のスケール、劉備が驚き恐れるさま、白々しい芝居、それとなく察する曹操、虎口を脱した劉備の安堵。
posted at 14:34:26
徳間書店『三国志演義』の解説だったか、魯迅は華容道の行を最高傑作としてるそうで、論拠は知らないけど理解できないな。華容道はひたすら曹軍の哀れを強調し、関羽がそれに耐えかねたというだけの筋で、主題となるべき関羽の内面描写も単純すぎる。さらなるメタレベルの葛藤があればよかったけど。
posted at 14:29:41
王欣太『蒼天航路』の曹操像があまり好きになれないのは、そうした曹操の古典的な多面性がすっかり削がれていて深みがないから。それを指摘すると、「美化されているから」と誤解されてしまうもどかしさがある。違う、美化されてんじゃない。むしろ曹操のもつ魅力を取りこぼしてるんだ。
posted at 14:16:19
『三国演義』は羅貫中の独断で成り立つわけではなく、先行小説、民間雑劇などの描写を大いに取り入れている。曹操が単なる陰険残忍の人としか描かれず、人情味があり、愛嬌があり、包容力があり、と描かれているところに中国の大衆一般の教養の深さが垣間見える。
posted at 14:13:59
うちで使ってる砂糖はみな三温糖。上白糖は使わない。というか、上白糖をえらぶ意味が分からない。カラメル化してないと甘みが薄すぎて砂糖が入ってんだか入ってないんだか分からんでしょ。
posted at 14:07:42
よくネット上の死刑推進論者(?)が「彼らを養いつづけるのは税金の無駄遣いだ」という言い方をするけど、じゃあ総体的に刑期を短くすればいいじゃんね。
posted at 11:20:48
「愚直」とか「狂直」とか言うけどね。暴君の面に向かって正論を言うとか、そういうのを言うんだよ。単なる愚者を「愚直」とは言わない。負けることを美化するのは、愚者が愚者であることの居直りにすぎない。それを社会全体で推奨するような風潮があまりにまずすぎる。
posted at 10:10:20
というかだな、「愚直」ってのは正直さをつらぬくあまり、外形的に愚者に似てしまうことを言うのであって、愚者であることを褒めてるわけではないのだよ。
posted at 10:08:07
負けてる自分を美化するときには大概同じロジックが使われていて、つまり自分は「愚直」なんだと。ほりえもんは「要領」がいいだけだから貴ぶに値しないと。「愚直さ」を非難しろよ。「要領のよさ」を評価しろよ。
posted at 10:06:23
美しい負け方というのはあると思うが、それはみすぼらしい勝ちほどの価値はない。勝つことのほうが圧倒的に価値がある。
posted at 10:02:54
個人がおのおので内心にそう思うのは構わないが、その心情を社会で共有するのがまずい。
posted at 09:56:04
試合に負けて勝負に勝った、などと下らないことを言ってはならない。試合に負けたのならそれは「負け」以外の何者でもない。負けて、それを「よし」と思う心情は心地よいものだが自己満足にすぎない。それは勝っても負けてもどうでもいいということであって、無責任である。
posted at 09:54:41
日本に特有なのかどうか知らないけど、敗者に美を感ずる、という風潮があるのは非常にまずいと思う。個人がおのおのの内心でそう感ずるのは別にいいけど、あくまでも内心に秘めたままであるべき。社会一般に共有される価値観になると敗北を恐れなくなってしまう。むしろそれを望むようになる。
posted at 09:50:43
みずからの加害者性に向きあうことが自虐で、被害者性を強調するのが誇りなんだそうだ。ねじれ現象だね。被害者であることを神聖視するのは、みな自分が被害者の側に立ちたいか、そうであると自認しているからなんだろうね。
posted at 09:44:32
犯罪被害者を聖者化しちゃうのは、みんな被害妄想の気味だからなのね。
posted at 01:58:22