2010年08月15日のつぶやき
残り29.5ギガしか空きのなかったHDDが、Windowsのディスククリーンアップをかけたら、54.8ギガまで空いた。でもファイル圧縮に10時間くらいかかってる。これ寝る前にやった方がいいね。
posted at 23:33:03
RT 日本人に対して行われているアメリカによる実質的な拷問 http://togetter.com/li/41714
posted at 22:46:14
RT @iwakamiyasumi: 続き。検事は、「ペットのワンちゃん、殺処分になっちゃうよ」と、脅した。脅すだけでなく、拘置されている間に、愛犬は本当に殺処分されてしまった。
posted at 22:40:25
XPのディスククリーンアップはデュアルコアに対応してないらしく、CPU使用率が50%前後でふらふらしてる。これ、アップデートしてマルチコア対応にならんかな。倍速は無理でも130%くらいにはなりそうなもんだけど。
posted at 18:55:02
空き容量が増えて効率よく回せるようになったのか、加速がついて今3ギガ目。
posted at 18:52:02
完成できなかった自作ゲームについて語るのははずいぜ。
posted at 13:36:34
たとえば、総合力10武力7というユニットと、総合力5武力10のユニットでは、実際の効果としては前者が10*10+7^2=149、後者が5*10+10^2=150とほぼ対等になる。個別の能力のほうが個性に大きく影響するが、総合力はすべての能力に加算され、いわば地頭のよさで万能型。
posted at 13:34:24
さきの三国志ゲームで困ったのは、どう贔屓目に見ても張遼がオールCくらいにしかできないこと。どこかでBくらいは与えてやりたいけど、他との関係でそれはできなかった。ただ、一芸に秀でるより総合力で優位になる設計だったので、それはそれでバランス的に問題はなかったけど。
posted at 13:22:44
@AkaNisin 曹仁は荊州を都督するまで、しばらく官位が停滞していたようなので、その埋め合わせで爵位と食邑が加えられてったんじゃないでしょうか。よく分かんないけど。
posted at 13:15:56
むかし三国志ゲームの自作を構想していたことがあり、当時の設定表では、能力がA、B、C、o、xの5段階評価で、于禁は趙雲とともに統率力Aとしていた。全登場人物の中でその2人だけ。徐晃と朱霊がB。張遼はBにするかCにするか悩むていど。軍律の徹底ぶりで決めてたので。
posted at 13:02:06
朱霊は清河の出身だけど、家族を故郷の人間に殺されたので領地を平原に替えてもらっている。そういえば曹魏の時代、この清河と平原のあいだで境界争いが発生しているが、両国は平素から仲が悪かったのだろうか。境界争いは平原のほうが勝っているが、明帝がかつて平原侯だったことが影響してそうだな。
posted at 12:49:24
否!断じて否!曹操は朱霊の萌え属性を見抜いた傑物なり!RT @Golden_hamster 曹操を慕って袁紹を捨てて曹操に付いた(って設定の)朱霊から兵取り上げる曹操マジ小物
posted at 12:32:47
張郃は夏侯淵の死後、おそらく鎮西将軍曹真の配下に組み込まれている。それが後年の対諸葛亮戦のコンビネーションの発端になる。朱霊はよく分からない。于禁に部曲を奪われたというので、おそらくこれは夏侯淵が戦死したことに対して責任を負わされたんじゃないかと思う。その後、曹休に属している。
posted at 12:25:32
張郃、徐晃、朱霊の3将はもともと関中〜漢中方面で活動していた。上官である夏侯淵の死後、それぞれ配置替えになる。徐晃は荊州に来て、于禁の敗退を収拾している。夏侯淵が生きていて漢中を守りきっていたら、代わりに荊州を失陥していたかもしれない。
posted at 12:20:36
もともと諸将は互いに仲が悪いものなのに、ある日突然その中の一人が上官になる。しかも仲間の中では一番低い身分の出身だ。となれば、諸将の内には職務をネグレクトするやつも出てくる。于禁があっさりと関羽に降服せざるを得なかったのには、そういう背景を負っていたからだろう。
posted at 12:03:58
夏侯惇が26軍を督したというのは、かれの下に張遼、楽進、李典…と26人の部将がいたという意味。于禁の7軍、徐晃の12軍も同じく。都督職を持たない、しかも「隊伍」から抜擢された于禁が諸将の上に立つというのは、もう、本当に大事件。それだけ関羽の脅威が大きかったということ。
posted at 11:59:43
「兵伍から取り立てられた」という楽進、于禁が諸将に先がけて左右将軍になれたのも、品格の低い魏国の将軍であればこそ。魏国が独自に前左右後将軍を置いたことは夏侯惇伝からも証される。『上尊号碑』の漢朝の征鎮、魏国の四方将軍の格付けが、禅代でそのままスライドして位階の反転現象が起きた。
posted at 11:54:07
『上尊号碑』で、衛将軍曹洪が虎牙将軍鮮于輔、軽車将軍王忠ら雑号将軍の下位に列しているのは、おそらく鮮于輔らが漢朝の将軍、曹洪が魏国の将軍だったから。征鎮は後漢の官制では高位の雑号将軍に過ぎなかったが、前将軍張遼がそれを下まわるのは張遼らが魏国の将軍だから。
posted at 11:50:38
ですねえ。秀吉政権でいうと家康を改易したようなものですので。RT @Golden_hamster 臧霸が軍権を返上した(というか剥奪された)件って、当時の感覚では大事件だったんじゃないかと思うんですがどうなんでしょう。
posted at 11:42:05
曹仁、曹洪が後漢以来の上将軍。曹真、曹休、夏侯尚、臧霸が征鎮将軍。張遼、張郃、徐晃、朱霊の前左右後将軍は使持節ではあるものの、都督督軍の役職を帯びていない。つまり兵権は持つが、州郡に対する検察権は持たない。したがって州兵を動員する権限がない。
posted at 11:33:32
『上尊号碑』で「都督督軍」を帯びているのは、曹仁、曹真、曹休、夏侯尚、臧霸の5人。この時点では欠いているが、本来は曹洪も帯びていたはず。またこの時点で存命しない夏侯惇、夏侯淵も有資格者であっただろう。この8将が曹操〜曹丕時代における元帥クラス。
posted at 11:27:54
御史中丞は兵事が発生すると「督軍」を冠して督軍御史中丞と呼ばれるようになるが、戦争が常態化すると、督軍職も常置されるようになり、それが魏晋の都督制に発展していく。…と思う。検察権力が兵権を兼ねる超強力な役職の到来。すごいよー。
posted at 11:24:10
古代三権の頂点が三公。太尉、司徒、御史大夫。成立した順に位階が高くなる。太尉は領域の「外側」を担当し、司徒は「内側」を担当する。御史は官僚(史)を制御するという意味。刺史は官僚を監視(刺)するという意味。御史中丞はたびたび刺史を率いて、太守の反乱を鎮圧しに出ている。
posted at 11:18:47
古代中国の官僚機構っておそらく村民5人とかのレベルから始まってて、隣村とのいざこざを武力で解決するため一番最初に軍部ができたはず。隣村を併合してって集団の規模が大きくなって民政担当者が置かれ、それら官僚らを監視するための検察が置かれ、この3部構造が古代における三権分立。
posted at 11:13:45
刺史は部郡国従事を耳目として太守を監視し、太守は督郵を耳目として県令を監視する。どちらも平面としての土地を直接的には持たない。県と県とのあいだに管轄区域が設定されていて、州郡はその集合。管轄してるっていっても区域内をすべて制圧できているとは限らないです。
posted at 10:56:48
@kokogiko おそらく伝わってないのではなくて、現実拡張の身体的意味、それを実現する技術、UI設計、アプリケーション(ゲーム)作り、マネタイズ、そうした複数の論点へツイートごとに転々と移動していただけだと思います。自分は最初、UI、アプリ設計の話と受け取っていた。
posted at 10:47:04
これはおそらくそうでしょう。刺史は太守の勤務状況を監査するのが仕事であって、もともと土地を治めるといった意識はないはずです。RT @Hiro_Satoh 三国の政府の感覚で「州」というのは、州治という点だったのかも知れません。
posted at 10:34:52
起。
posted at 09:59:50
寝。
posted at 02:24:34
などとアホなこと言うておりますが。
posted at 02:07:13
陳寿は『呉書』を流用するにあたり、「太祖」をすべて「権」に改めたが、諸将のせりふとして「陛下」と呼びかけている箇所を、どう書き換えるべきか判断しかねたのか、そのまま「陛下」と残している。ちくまの邦語訳を読んだ人が「誤訳では」と早とちりしていたが、そうではないのだよ。
posted at 01:53:06
韋昭の『呉書』は現存していないが、陳寿がまるごと『三国志』に取りこんだので、おおよその内容は分かる。陳寿が『呉書』を取りこんだことは、即位前の孫権を諸将に「陛下」と呼ばせていることから分かる。魏志や蜀志には例のないことだ。
posted at 01:50:32
韋昭の『呉書』は、劉虞や張繡、陶謙などの動向に詳しい。かれらを漢末の群雄とし、ちょうど『三国志』における董卓や二袁の列伝のような位置付けとしたのだろう。『魏略』が諸葛亮伝を立てたのは、そういった趣旨なのだろうか。それにしては、時代が下りすぎて魏朝と時期が重複してしまっている。
posted at 01:46:56
『魏略』には諸葛亮伝が立てられていたと思われるのだが、敵国の宰相をわざわざ立伝した理由と、孫呉の宰相はとくに触れられてないようで、立伝するしないの判断の境目がよく分からない。
posted at 01:41:58
『魏略』は表現が豊かなので原文でも違いが分かる。大ざっぱにだけど。楽進伝が短いのは『魏略』からの流用がなく、『魏書』に拠っているから。『魏書』は表現が退屈なので、それはそれで分かりやすい。いまは読み手の感覚でしか区別できないが、n-gramなどの解析で判別できるようになるだろう。
posted at 01:40:07