劉表の跡目争いから赤壁へ

まあ早い話が、劉琦と劉琮のどっちがより父親に愛されていたかという問題ではないのですよ。これは荊州豪族の派閥争いが根底にあって、それが劉表の跡目争いという形になって表面化しただけなのだ。

劉表荊州牧として赴任してきたとき、荊州豪族はあちこちで軍勢を抱えて劉表服従しなかった。おそらくは多くが袁術孫堅と気脈を通じていたのだろう。劉表はそれらの豪族55人を謀殺した。彼らの名は記録に残されていない。この事件に劉表サイドとして関与したのが蔡瑁と蒯越。殺された55人と、殺した蔡瑁・蒯越。この対立する両者が荊州を読み解くカギになる。

この対立はなにも劉表荊州入部に始まったものではないだろう。おそらく劉表以前、100年くらいは続いてきたと想定してもいいと思う。

一方の系統は蔡瑁派と呼ぶことにしよう。蔡瑁の活動時期にこだわらず広く考える。
もう一方は、代表する豪族の名が史書に残っていないので呼び名に困る。ただ、黄祖がこちらの派閥に属した可能性が高いので、黄祖派と呼ぶことにしよう。実際に黄祖本人がこちらに属していたかどうかは別として。

ともかく蔡瑁派と黄祖派はもう100年ものあいだ、州政や利権をめぐって水面下で対立しつづけてきた。ときには武力による闘争にも発展した。…ということにしておこう。

そこへ荊州劉表が赴任してくる。まだどちらの派閥に肩入れするかはだれにも分かっていない。着任早々、劉表黄祖派の豪族55人を酒宴に招いた。彼らが誘いに応じたのは蔡瑁派よりも早く州牧を丸め込むためであり、劉表の方から誘われたということは、劉表黄祖派を選んだということである。彼らはそう信じた。ところが、それが蔡瑁の仕掛けた罠であった。黄祖派55人は、その席上で皆殺しにされてしまう。これによって蔡瑁派が一気に優位に立つ。

これで黄祖派が全滅したわけではない。襄陽を占拠していた江夏郡民の張虎・陳生など、まだまだ根強い勢力を保っていた。しかし劉表の信任を取り付けた蔡瑁派の勢いにはかなわない。そこで彼らは劉表に臣従した。

黄祖という人はどこの出身なのか分からない。しかし、たびたび孫策孫権に敗れてもなお地元豪族から支持され続けたことからすると、やはり江夏豪族であったと考えるべきだろう。もしよそ者だったなら敗北を喫した時点で追放されたはずだ。同時代、江夏郡安陸の出身者に予州牧黄琬がいる。黄祖もその一族だったのかもしれない。また、黄祖の部将に張碩・陳就などがいて、かつて襄陽を占拠した張虎・陳生との関係を思わせる。江夏郡では、黄祖を頂点としたゆるやかな豪族連合が形成されていたのだろう。そして、その連合の形を保ったまま劉表に従属することになる。

蔡瑁派が政権中枢を握ったとはいえ、黄祖の子黄射が章陵太守になるなど、黄祖派もまだまだ健在であった。彼らは蔡瑁派に服従しつつも勢力挽回の機を窺う。蔡瑁の姉が劉表の後妻となり、その子劉琮が後継者候補に立てられたのは、黄祖派にとっても朗報であった。かくて廃嫡された長子劉琦を軸として、反蔡瑁派が結束してゆく。

そこへ歴戦の猛将ながら敗戦続きで国を失った劉備が流れ込み、彼もまた黄祖派に近い立場につく。むろん蔡瑁派にとって面白いことではなく、劉備暗殺を図るも失敗に終わる。劉備は博望で夏侯惇軍を打ち破るなどの戦功を立て、次第に荊州豪族たちの期待を集めるようになってゆく。豪族というのは、むろん黄祖派の豪族のことだ。

劉表が死に、曹操荊州侵攻を始めると、劉琮が父の後を継いで曹操に降服した。このとき黄祖はすでに亡く、代わって劉琦が江夏太守になっていた。劉琮が後を継いだと聞いて腹を立て、劉琦は軍勢を率いて漢津へ向かった。そこで劉備が逃げてくるのに出くわし、すでに曹操が長阪まで来ていると聞いて、そのまま劉備と一緒に江夏に帰っていった。

曹操は劉琮の降服を受け入れて襄陽・江陵を押さえると、そのまま烏林に進出して劉備孫権と対峙した。劉琮を頂点とする蔡瑁派をすっぽり受け入れ、すでに北部荊州では51%の支配を固めている。しかし劉備・劉琦以下の49%が気がかりだ。その優位は、そよ風がわずかに吹くだけでくつがえるような微妙な優位である。劉備の動き次第では、荊州支配をすっかり諦めなければならなくなるような状況にもなりかねない。

劉備孫権と戦う必要はない。できるだけ彼らに荊州への干渉を許さず、ただ時間を稼ぐだけで、51%の支配が52%、53%…と確かなものになってゆく。多少の強風が吹いただけではぐらつかない程度に支配が固まるまで、荊州に軍勢を置いて押さえておけばよかった。