袁紹

袁紹陣営に属した人物は大きく二つのグループに分けられる。一方は冀州出身の豪族組、もう一方は汝南・潁川・南陽出身の賓客組。袁紹陣営内では密告讒言の嵐が吹き荒れていたような感があるが、よくよく注意してみると一定の方向性を持っていたようにも見える。

    • 郭図(賓客)→沮授(豪族)
    • 郭図(賓客)→張郃(豪族)
    • 逢紀(賓客)→田豊(豪族)
    • 孟岱(?) →審配(豪族)

記録ではつねに豪族の方が被害者側に立っているのだ(サンプル数があまりにも少なすぎるが…)。また孟岱の発言には郭図らが支持しており、彼も賓客組に属していた可能性が高い。とすれば袁紹陣営は内部に賓客←→豪族という二者対立を抱えていたのだと考えられる。

では、なぜこのような対立が生まれたのであろうか。おそらく陣営内における役職や権限が争われたのだろう。沮授は『三国志』によると監軍・奮威将軍である。『後漢書』では監軍とする代わりに「諸将を監督させた」とあり、つまりは袁紹陣営に属す部将たちを取りしきる総司令官の役割なのだろう。また当時の雑号将軍の地位は非常に高く、他陣営であれば君主が就いたような官職である。田豊冀州の別駕従事、審配は同じく治中従事で、いずれも州政の取りまとめ役であった。袁紹本人の仕事が残らないほどの大権を豪族組に分け与えている。ところが一方、賓客組では官職はおろか、私的な役職さえ記録されていない。

つまり袁紹のリーダーシップのもとで多様な人材が活躍していたように見えて、その実、冀州豪族による役職や権限の独占的状況があり、賓客たちはなんとか彼らの権限を切り取り、自分たちのものにしようとした。その現れが、かの「讒言」と称されるものの正体ではないだろうか。賓客たちは一般的に、君主の権威・権力を一部代行することによって自分たちの権力に代える。袁氏の賓客たちがこのようにほとんど権限を与えられていなかったということは、とりもなおさず袁紹自身が実権を失っていたことを示唆するものだろう。よって、賓客らの「讒言」を受け入れることは、それがそのまま袁紹にとっては豪族に対する君主権力回復の戦いであることを意味する。

こうした豪族優位の状況は、袁紹冀州入部からしばらく続いたが、官渡の戦いを前後して大きく様相が変わってきた。

まず狙われたのは沮授の巨大な軍権であった。賓客組の郭図が「一人に大権を預けてはならぬ」と進言したのを受けて、袁紹はその軍権を三分割、うち一つは従来通り沮授に管轄させ、一つは郭図、もう一つはやはり賓客組であった淳于瓊に与えた。さらに官渡決戦の直前、沮授の不服従を口実に残りの軍勢も没収、郭図に付与した。

さらに官渡の敗戦に際して、逢紀の「讒言」によって田豊が処刑され、また郭図・辛評の支持を受けた孟岱が審配を「讒言」している。ただし審配の場合は逢紀の弁護によって失脚は免れた。賓客組の逢紀が豪族組の審配と共同歩調を取るようになったのはこのときからである。なぜ逢紀が同じ賓客組の郭図と対立するようになったのかは分からないが、このとき郭図はかつて沮授が持っていた軍権のほとんどを一手に握るようになっていたため、その新たな独占ぶりが反感を買ったのではないだろうか。

袁紹の死後、両グループはそれぞれに庇護者を求め、袁紹の後継者を立てた。このとき賓客組が青州刺史袁譚を庇護者に選んだのは当然のなりゆきだろう。彼らは単身故郷を離れた存在で、後ろ盾になる軍事力を持っていなかったから、冀州豪族が冀州兵を握っている以上(というより冀州兵=冀州豪族の私兵)、青州兵を有する袁譚を後継者に選ぶしかなかった。

袁譚袁尚の抗争は、賓客組・豪族組の反目から結果的に生じたものであって、もし賓客と豪族との対立がなかったならば、袁兄弟が争うこともなかったのではなかろうか。

…などというもっともらしいウソはできるだけ言わないようにしよう。