聖王と軍師

古代中国人が尊んだ三人の者。
(以下、典拠なし)

これを「三尊」という。とりわけ父への崇敬は篤く、君、師はそれに次いだ。君、師に仕えるに際しても、父に仕える如くするのが理想とされた。三尊を侮辱する者があれば、その者を殺すことさえも許された。

魏志夏侯惇伝》
十四歳のとき、師に仕えて学問をしていたが、ある人が師を侮辱したので、夏侯惇はその者を殺した。それ以来、激烈な気性で有名になった。

すでに君主の立場にある者でも、人格、見識、才能に秀でた人物があれば、その者を臣下として扱うことを憚り、師として待遇することがしばしば行われた。その典型が周の文王における太公望呂尚ということになる。のちに斉の管仲を「仲父」、楚の范増を「亜父」と呼んだのもその流れの上にある。父に次ぐ尊敬を得たのだ。

彼らは年老いてなお無位無官の身である。恬淡無欲であるため世俗の富貴に関心を持たず、そのうえ高い見識を備えているため徳の劣る人物をおのれの主君と見なさないのだ。だから、彼はかならず隠者として見出される。聖王の治世下でもみずから世に出ることはない。聖王が駕を枉げてみずから訪い、うやうやしく礼を尽くし、真心を尽くして、初めて、やむを得ず、しぶしぶと草廬を出ることを承諾する。

時代が下ると、君主がみずから在野の賢者のもとを訪い、出仕を請い、わが師よ、わが父よと仰ぐのが一つの作法として成立してくる。そして、その地位も制度化されて、それがそのまま官職になりもする。

《襄陽耆旧記》
龐徳公は襄陽の人である。荊州牧の劉表はたびたび招聘したが、思い通りにはならなかった。そこで彼自身が出かけて会いに行き、公に言った。「先生は畦や畝のなかで苦労を重ね、俸禄のあてがいを拒絶なさっておられる。それでは後世、なにを子孫に残してやるおつもりですか?」公は言った。「世間の人々はみな危険を残しておりますが、いま私だけは安全を残しているのです。残すものは違っておりますが、なにも残さないわけではございません。」劉表はため息をついて、立ち去った。

司馬徽別伝》
劉表の子劉琮は司馬徽に会うため出かけ、使者を派遣して在宅がどうか確かめさせた。ちょうど司馬徽はみずから鋤を手にして畑を耕していた。劉琮の側近が「司馬君はご在宅かね?」と訊ねると、司馬徽は「私がそうです」と答えた。側近はその無様な姿を見て「腐れ人夫め。将軍がたは司馬君にお会いなさるおつもりだ。なぜ貴様ごとき農奴がそうだと自称しやがるのか」と怒鳴りつけた。司馬徽が頭を刈って頭巾をかぶり、家から出てきて劉琮に会った。側近が司馬徽を見るとさっきの老爺であったので震えあがり、劉琮に告げると、劉琮は土下座して謝罪した。

《呉志・討逆伝》
はじめ孫策が江都にいたとき、張紘は母の喪に服していた。孫策は何度も張紘のもとを訪ね、世事の要務について質問して言った。「君のご高名は他国まで広がり、遠きも近きも懐き慕っております。今日のことの計略は、君によって決定されるのです。どうしてご遠謀を啓示されて、高山のごとくご尊敬するのに沿うてはくだされないのですか。もしささやかな志が遂げられ、血縁の讎に報いることができますれば、それこそ君のご尽力によるものであり、孫策の心より望むところなのです。」そして涙をあふれさせて泣き、顔色を変えることはなかった。

《蜀志・秦宓伝》
劉備益州を支配するようになると、広漢太守夏侯纂が秦宓を「仲父」と呼んで師友祭酒・五官掾に招いた。秦宓は仮病を使って屋敷に籠っていたが、夏侯纂が訪ねてきて「仲父、益州とはどのような国か」と訊いた。すると秦宓は益州を流れる長江が中華第一の大河であること、益州生まれの禹が治水により空前絶後の業績を立てたこと、天帝が益州に連動する星座を見て政策を決めることなどを滔々と述べ、小人物のためには仕官しないことを暗に宣言した。夏侯纂はまごまごして返答することができなかった。

《蜀志・諸葛亮伝》
徐庶は先主に告げた。「諸葛孔明臥龍です。将軍はどうしてお会いなさらないのですか?」先主が「君が連れてきてくれ」と言うと、徐庶は言った。「かの人物は、会いに行くことはできても、力づくで呼ぶことはできません。将軍よ、どうか駕を枉げて出向いてくださいますよう。」こうして先主は諸葛亮のもとを訪ね、三たび出かけて、ようやく会うことができた。

聖王の師、すなわち国家の師たる者にふさわしいのは、天下国家をいかに治めるかという大仕事であって、それ以外のこまごました雑務に手を煩わすことがあってはならない。だから彼らがつく官職は、宰相職以外にありえない。もし主君がいまだ帝位に登っておらず、その師を宰相の座に迎えられない場合は、あえて官職につけない。つまらぬ官職を与えれば、その人物を値踏みしたことになってしまうからだ。

劉備諸葛亮を迎え入れたとき、彼はまだ左将軍であって、諸葛亮を然るべき地位につけることができなかった。そこで劉備は、諸葛亮を軍師中郎将に任命するよう推挙した。のちには軍師将軍に昇進する。師が従軍するから、「軍師」だ。この軍師という言葉は、日本の講釈の説くように参謀とか腹心といった意味ではない。皇帝の師、聖王の師なのである。

諸葛亮は国家の師たるべき人物なのだから、皇帝直属の官職につくのでなければならなかった。軍師中郎将や軍師将軍は、左将軍に比べれば低い地位であるが、皇帝直属の将軍職であり、一部将を介した陪臣ではない。いささか役不足ではあるが、皇帝の師たる体裁は整えられたといえる。劉備は、のちに漢中に王国を建てたときも、諸葛亮をその王国の官職にはつけなかった。王国の臣下ではなく、皇帝の師であらねばならなかったからだ。

劉備が帝位に登ったとき、諸葛亮はそこではじめて丞相に任じられた。名実ともに、国家の師として、聖王を補佐する地位についたのである。