陸遜北上2

陸遜北上の関連記事をもう少し詳しく見ていきます。

  1. 延康元年(二二〇)、孫権西上の知らせを受けた曹丕は、食糧不足により襄陽から宛へ曹仁を撤退させた(晋書宣帝紀曹仁伝)
    • 曹仁伝の記事は情報が少なすぎてほとんど参考になりませんが、『晋書』宣帝紀を見ると事情は歴然です。
      (原文)魏文帝即位,封河津亭侯,轉丞相長史.會孫權帥兵西過,朝議以樊、襄陽無穀,不可以禦寇.時曹仁鎮襄陽,請召仁還宛.帝曰:「孫權新破關羽,此其欲自結之時也,必不敢為患.襄陽水陸之衝,禦寇要害,不可棄也.」言竟不從.仁遂焚棄二城,權果不為寇,魏文悔之.
      (訳文)曹丕が即位すると、(司馬懿は)河津亭侯に封ぜられて丞相長史に転任した。そのころ孫権が軍勢を率いて西上しており、朝廷では「樊・襄陽には食糧がないので防ぐことができない。襄陽に駐屯している曹仁を宛まで後退させるべきだ」と訴えた。司馬懿は「孫権関羽を打ち破ったばかりなので、これは結束力を高める機会を求めているだけです。ご心配なさる必要はありません。襄陽は水陸防衛の要ですから放棄してはなりません」と述べたが、聞き入れられなかった。曹仁は樊・襄陽に火を放って放棄したが、孫権はけっきょく侵略を働かなかったので、曹丕は後悔した。
      曹丕は魏王に就任しただけで、まだ帝位に就いたわけではありません。曹丕の官職は依然丞相のままで、司馬懿はその長史になったということです。この引用文のすぐ後ろに「魏が漢から受禅した」とあります。つまり、曹仁の樊・襄陽放棄は曹丕が受禅する以前のできごとです。また、ほかの記事と照らし合わせると「孫権が侵略を働かなかった」というのは事実ではありません。おそらく司馬懿を美化するための歪曲です。
  2. 曹操の死に乗じて孫権が襄陽を占拠する(呉主伝注引魏略載魏三公奏)
    • 黄武元年(二二二)に曹丕孫権を攻撃したとき、魏の三公が出した上奏文にこれまでの経緯が回想されています。その文中に「孫権は、先帝が崩御された弱みに付け込んで襄陽を占拠し、それが駆逐されるとまた卑屈な態度を取りました」とあります。孫権本人ではないにしろ、呉軍が襄陽を占拠したことは間違いありません。
  3. 陸遜が魏(?)の房陵太守訒輔・南郷太守郭睦を撃破(陸遜伝)
    • 『集解』の著者盧弼は、この両太守は蜀による任命だろうと主張していますが、とくに根拠があるわけではないようです。両郡は境を接しているとはいえ、それぞれの治府は互いにそれなりの距離があります。陸遜伝では両太守に攻撃をかけて撃破したとあり、まず房陵に入って訒輔を撃破し、そのあと南郷に入って郭睦を撃破というのではなく、両太守を一ヶ所に誘い出してまるごと撃退したような書き方です。襄陽城は両郡の境に近いので、両太守は、呉軍の襄陽入城に対して、襄陽を奪回するか、それ以上の進撃を食い止めるため、襄陽近くまで二方向から挟撃したところを陸遜に反撃されたと考えるのが自然だと思います。そうすると、やはり両太守は魏による任命であろうと思います。蜀の太守なら、関羽が敗死したばかりでそこまで抵抗する余裕はなかろうと思われるからです。
  4. 延康元年秋、魏将の梅敷、陰・酇・筑陽・山都・中廬の住民三千戸が呉に帰服した(呉主伝)
    • 『集解』原文は「南陽陰酇筑陽山都中廬五縣民三千家來附」とあります。中華書局の標点本やちくま訳本では「五千家」としています。『建康実録』でも「五千家」となっています。どちらが正しいのか分かりません。この一文は解釈に迷うところです。普通に読めば、ちくま訳本と同じく「南陽郡の陰・酇・筑陽・山都・中廬の五県の住民あわせて五千戸が、呉に帰属して来た」としたいところですが、中廬県は南郡あるいは襄陽郡の属城であり、南陽郡の属城ではありません。そこで「南陽」を南陽郡ではなく南陽県(南郷郡に属す)として読む説もあるのですが、そうすると五県ではなく六県になってしまいます。『建康実録』では、魏将の梅敷が南陽長史張倹を使者とし、南陽の陰・酇・筑陽・山都・中廬五県の五千家を連れて帰服した、としており、それによると梅敷は南陽の統治者として治下の領民を連れてきたことになります。となれば、そのころ魏は南郡の支配を失っていたため、中廬県は南陽郡に編入されていたと見るべきかもしれません。このころ南陽郡は分割されて陰・酇・筑陽は南郷郡に所属しているので、ここで南陽郡と言っているのはおかしいという考えもありますが、ここでは置いておきます。この事件が起こったのは、おそらく呉軍が襄陽に入城して以降のことでしょうが、房陵・南郷の両太守が陸遜に敗れる以前なのか、以後なのかは分かりません。『建康実録』説を採用するとして梅敷が南陽長史を介していることを見ると、両太守の敗走以前と見るべきかもしれません。両太守の敗走後であれば、わざわざそんな回りくどいことをする必要はないように思われます。
  5. 襄陽を守っていた呉の陳邵が、曹仁に敗れる(曹仁伝)
    • ようやく魏側の史料でまともな記述が出ました。呉将の陳邵が襄陽を占拠していたので、詔勅により曹仁徐晃が陳邵を追放して襄陽を奪回したという記録です。このとき漢水南岸の住民を北岸に移住させたとのことですが、これは梅敷らが五県の住民を連れ去ってしまったので、その反省から善後策を取ったということでしょう。もしかすると梅敷の寝返りは曹仁による襄陽回復以後なのかもしれませんが、呉の襄陽占拠によって孤立していた時期でも魏に留まったのに、魏が優勢を占めてから呉に寝返る必要はほとんどないように思われます。
  6. 黄初二年(二二一)四月、曹仁が大将軍に(文帝紀曹仁伝)
    • 曹仁は襄陽を回復した功績により大将軍に任命されましたが、これは黄初二年四月のことです。ということは、曹仁による襄陽回復はそれ以前ということになります。

関羽が樊・襄陽を包囲していたころ、曹操許昌の都が敵地に近すぎると考えて北方に遷都しようと考えていましたし、満寵は樊を失えば黄河以南は敵の手に渡ってしまうだろうと言っています。樊・襄陽を守ることの重要さが分かります。ところが、孫権はその襄陽をあっさりと手に入れてしまいました。曹操が亡くなると、臧霸青州兵は威勢を誇示しながら無断で立ち去り、洛陽の民衆は異心を抱え、曹彰は魏王の印綬を窺いました。関羽は死んでいても、洛陽・許昌の不穏さは決して消えてはいませんでした。そこへの孫権軍の北上は関羽と同じくらいのインパクトがあっただろうと思います。この事件はもう少し注目されてもいいと思います。