陸遜北上

陸遜関羽を倒したあと北上し、魏に打撃を与えたことは意外に知られてないのかな。私も普段はあんまり意識することはないです。

  1. 延康元年(二二〇)、孫権西上の知らせを受けた曹丕は、食糧不足により襄陽から宛へ曹仁を撤退させた(晋書宣帝紀曹仁伝)
  2. 曹操の死に乗じて孫権が襄陽を占拠する(呉主伝注引魏略載魏三公奏)
  3. 陸遜が魏(?)の房陵太守訒輔・南郷太守郭睦を撃破(陸遜伝)
  4. 延康元年秋、魏将の梅敷、陰・酇・筑陽・山都・中廬の住民三千戸が呉に帰服した(呉主伝)
  5. 襄陽を守っていた呉の陳邵が、曹仁に敗れる(曹仁伝)
  6. 黄初二年(二二一)四月、曹仁が大将軍に(文帝紀曹仁伝)

それぞれの事件に年月の記載がないので詳しい経緯が分かりませんが、大体こんな感じではないかと案配してみました。このほか、満寵が江陵の戦いで呉を破ったという記事が曹丕の魏王即位の直後、黄初二年以前に挿入されてますが、その戦いは、おそらく黄初三年のものを指しているので、ここに挿入するのは妥当でないと思います。

関羽があれだけ血眼で攻め立て、曹仁があれだけ死に物狂いで守ってきた襄樊があっさり呉の手に落ちていると知ったとき、私はかなり驚きましたよ。「ドアが開かない、ぶち破ろう」を見た三村まさかずが「引き戸だったのかよ!」って突っ込むくらいの勢いで襄陽落ちちゃってたのかよ!と言っちゃいますよ。

追加

  • 陸遜が襄陽を攻略したとき、中廬山の洞穴から数十匹の馬が出てきた(襄陽耆旧記)

さらに追加

  • 柤中は上黄の西の県境にあり、襄陽城を去ること百五十里である。魏の時代、夷王の梅敷三兄弟の部曲一万家がこの地に屯していて、中廬・宜城の西山の鄢・沔の二つの谷間に散らばって住んでいた(襄陽耆旧記)