梅敷

陸遜北上に際して呉に寝返った魏将梅敷の件。
何気なく『襄陽耆旧記』を眺めていると以下の文を発見。

 呉の時代、朱然が樊城を包囲し、諸葛瑾が沮中から険しい山道を北へ抜けて柤中に進出した。「柤」の発音は租税の「租」と同じ。
 柤中は上黄県の西境にあり、襄陽城を去ること百五十里である。魏の時代、夷王の梅敷三兄弟の部曲一万家がこの地に屯していて、中廬・宜城の西山の鄢・沔の二つの谷間に散らばって住んでいた。土地は高く平ら、桑や麻の栽培に向き、水陸にまたがって美田が広がる。沔南の沃野であり、「柤中」と呼ばれていた。

以前読んだときには気付かなかったのにね。孫ぽこさんが梅敷は異民族の領主と書いてるのはこれが出典だったのか。『呉志』にも引用されてるのね。周魴曹休に送った手紙に「孫権は梅敷討伐を命じている」とあるので、呉に寝返ったあとまた魏に帰ったらしい。