建康実録3

『建康実録』を読もう。その2。の続き。その3。今回は手抜きして中華書局の点校説明から。

  1. 孫権の歩夫人の諱は「練師」。
  2. 孫晧の滕皇后の諱は「芳蘭」。
  3. 全尚の字は「子真」。
  4. 全蒴の享年は五十二。というわけで、建安三年(一九八)生まれ。

ところで、この全蒴の没年というのがよく分からない。『呉志』孫権伝には赤烏十年(二四七)春正月とあり、同全蒴伝では赤烏十二年とある。十二年春三月に左大司馬朱然が亡くなっているので、これが右大司馬全蒴と取り違えられたものかと思いきや、『建康実録』では十二年春三月に朱然が亡くなり、その年の冬に全蒴が亡くなったとされている。多数意見を正しいとするならば十二年説を採用することになるが、それでは孫権伝にいう十年春正月に亡くなったというのは何者なのだろうか?

(暫定意見。赤烏十二年春三月に左大司馬朱然が亡くなったとき、もし全蒴が存命ならば右大司馬から左大司馬に昇進の沙汰があってもおかしくないはずだ。それがなかったということは、このときすでに全蒴は亡くなっていたのではないか。とすれば孫権伝に載せる赤烏十年説が正しいことになる。しかし孫権伝では全蒴の死を春正月のこととし、『建康実録』が冬としているのと一致しない。やはり孫権伝が誤りで全蒴伝や『建康実録』が正しいのだろう。おそらく全蒴が賜った印綬にはただ「大司馬」と称するに過ぎず、席次において朱然と左右の区別しただけで、また朱然に代わって大司馬に昇進する者がなかったため、改めて昇進の沙汰を必要としなかったのだろう。)