王済と孫晧の問答

『建康実録』を眺めていると、次のような記述がありました。

『建康実録』注
(原文)案,『三十國春秋』:晉王濟嘗與武帝碁,時濟伸脚在局下,因問晧曰:「聞君生剝人面皮何也?」晧曰:「人臣無禮於其君者,則剝之。」武子大慙,遽縮脚。
(訳文)『三十国春秋』を調べてみた。晋の王済はあるとき武帝と一緒に碁を打っていたとき、碁盤の下で脚を伸ばしたまま、孫晧に訊ねた。「貴君は生きた人間の面の皮を剥いだと聞くが、なぜかね?」孫晧は言った。「人臣でありながら主君に無礼を働く者があれば、そいつを剥ぐのです。」武子(王済)はいたく恥じ入って、あわてて脚を引っ込めたのであった。

以前触れた賈充と孫晧の問答とほぼ同じやりとりですが、孫晧に質問した人というのが、賈充ではなく王済という人になっています。そこで『晋書』を調べてみると、

『晋書』王渾伝附王済伝
(原文)帝嘗與濟奕棊,而孫晧在側,謂晧曰:「何以好剝人面皮?」晧曰:「見無禮於君者則剝之。」濟時伸腳局下,而晧譏焉。
(訳文)帝はあるとき王済と一緒に碁を打っていたとき、孫晧が側にいたので「どうして好きこのんで人間の面の皮を剥いだのかね?」と訊ねると、孫晧が言った。「主君に無礼を働く者があれば剥ぐのです。」王済がそのとき碁盤の下で脚を伸ばしていたので、孫晧はそれを咎めたのである。

とありました。孫晧に問うたのがあっちで王済、こっちで武帝になっていますが、大筋では同じです。『建康実録』が引用している『三十国春秋』は、梁の元帝の嫡子・蕭方等が著した史書で、唐の房玄齢は『晋書』を編纂するにあたってこの本を参照しているそうですから、きっと王済伝のこのエピソードの出所も『三十国春秋』なのでしょう。

一方、孫晧と賈充とが問答したとする『裴子語林』は、東晋の裴啓の著した本で、こちらの方が成立時期は早く、伝えられるエピソードも簡素です。

『太平御覧』所引『裴子語林』
(原文)賈充問孫晧曰:「何以好剝人面皮?」晧曰:「憎其顏之厚也。」
(訳文)賈充が孫晧に訊ねた。「どうして好きこのんで人間の面の皮を剥いだのかね?」孫晧は言った。「厚顔さが憎らしいのです。」

と思ったら、『裴子語林』には王済バージョンも収録されていたようです。

『太平御覧』所引『裴子語林』
(原文)王武子與武帝圍碁,孫晧看。王曰:「孫歸命何以好人面皮?」晧曰:「見無禮於其君者則剝其皮。」乃擧碁局,武子伸脚在局下。
(訳文)王武子は武帝と一緒に碁を打っていて、孫晧が観戦していた。王氏が言った。「孫帰命どのはどうして好きこのんで人間の面の皮を剥いだのかね?」孫晧が言った。「主君に無礼を働く者があれば、その皮を剥ぐのです。」そこで碁盤を持ち上げると、王武子はその碁盤の下で脚を伸ばしていた。

ということは、『三十国春秋』の根拠は『裴子語林』だったのでしょうか?

整理すると、まず東晋の『裴子語林』に賈充バージョンと王済バージョンの2つが収録されていて、梁の『三十国春秋』はそのうち王済バージョンを再録。唐の『晋書』はそれを踏襲して王済バージョンを収録し、賈充バージョンは組み込まなかった。北宋司馬光資治通鑑』はどういうルートかは分かりませんが、賈充バージョンを拾い、元の羅貫中はそれを根拠に『三国演義』を書いたと。