遼来来

張遼の威名は泣く子も黙らせたという話。

『太平御覧』兵部十
(原文)《魏志》曰:张辽为孙权所围,辽溃围出,复入,权众破走,由是威震江东。儿啼不肯止,其父母以辽恐之。
(訳文)『魏志』に言う。張遼孫権に包囲された。張遼が包囲を破って脱出し、また突入すると、孫権軍は潰走した。それ以来、江東に威名が鳴り響いた。子供が泣きやまぬときは、その父母が張遼を持ちだして脅すのである。
『太平御覧』人事部七十五
(原文)《魏书》曰:张辽,字文远,为荡寇将军。陈兰梅成叛,太祖讨之。兰入潜山中,有天柱山,辽遂进军斩兰、成首。太祖论功曰:“登山履峻险,辽之功也。”筯封假节。孙权率十万众围合肥,辽募其敢死者八百人,登锋陷阵,大破之。太祖遣辽屯合肥,给辽母车舆兵马,遂夷瓮所。敕辽母至所在,令道从迎,观者荣之。江东小儿啼,恐之曰:“辽来,辽来!”无不止矣。
(訳文)『魏書』に言う。張遼は字を文遠といい、蕩寇将軍である。(略)孫権が人数十万を率いて合肥を包囲すると、張遼は決死隊八百人を募集し、先頭を切って敵陣を陥落させて大破した。(略)江東で子供が泣くときは、「張遼が来たよ、張遼が来たよ!」と脅せば泣きやまぬことはない。
『太平御覧』人事部一百二十九
(原文)《魏略》曰:张辽为孙权所围,辽溃围出,复入权众破走,由是威震江东。儿啼不肯止者,其父母以辽恐之。
(訳文)『魏略』に言う。張遼孫権に包囲された。張遼が包囲を破って脱出し、また突入すると、孫権軍は潰走した。それ以来、江東に威名が鳴り響いた。子供が泣きやまぬときは、その父母が張遼を持ちだして脅すのである。

兵部十の引用は現存する『魏志張遼伝に似ていないし、人事部一百二十九に引用される『魏略』と全く同じ文なので、正しくは『魏略』からの引用なのだろう。人事部七十五に引用される『魏書』は王沈の著作。

追記

『魏書』『魏略』『魏志』はほぼ同時代に書かれた史料で、王沈の『魏書』は正元年間(二五四〜二五六)に書かれたとあり、魚豢の『魏略』は魏の末期、陳寿の『魏志』は西晋の初期に書かれたと見られている。いずれにしても、張遼が黄初三年(二二二)に亡くなってからまだ数十年ほどで、すでにその武勇が神話化していたことが分かる。決して後世の小説家の作り話ではないのだ。