ファシスト・ジャパン

これが日本だ via 【▼CLick for Anti War】

産経には珍しい論調でした。

 ミャンマーの学校の歴史教育で描かれる日本のイメージは決してよいものではない。それを代表する言葉が「ファシスト・ジャパン」である。この言葉が生まれた時期は第2次世界大戦中にさかのぼる。中国戦線でイギリスの援助を受けた蒋介石軍に手を焼いた日本軍は、当時のミャンマー、英領ビルマに侵攻してその武器輸送路を遮断しようとする。おりしも英領ビルマ内では反英独立運動が盛り上がっており、日本軍はこれを利用しようと図る。かくして30人の独立運動家の青年が日本軍の軍事訓練を受け、これが現在のミャンマー国軍の基礎ともなる。青年たちが厳しい訓練に耐えたのは、日本はイギリスを放逐し、ミャンマーの独立に協力するという日本側の言葉を信じてだった。事実、日本の将兵たちの中には善意にこの「アジア解放」の夢の使命感に燃えている者もいた。

 しかし、日本が英領ビルマを占領して行ったことは新たな植民地宗主国の振る舞いであり、日本が与えた独立も傀儡政権の樹立にすぎず、独立運動家たちにとっては「日本に裏切られた」というのが実感だった。さらに日本軍による住民の強制連行や婦女子に対する暴行、英国と通じたスパイ探しのため憲兵隊が行った拷問などは「ファシスト・ジャパン」という言葉を残すに至る。やがて独立運動家たちは日本軍に対する反乱を準備する。1945年3月27日、彼らは抗日武力闘争を開始する。事実上、数年間にわたり独立運動を助けた日本に恩義も感じていた彼らにとって、これは苦しい選択でもあった。と同時にその数年は彼らに外国人不信の念を残すことにもなったようである。3月27日はその後ミャンマーでは国軍記念日となり、毎年盛大な式典が行われている。

他のインドネシアなどに対してもそうだったけど、当時の日本軍は現地の独立運動に支援を持ちかけておき、欧米を追い出したあと傀儡政権を樹立するなどして独立を反故にするパターンが多かった。だから、かつては日本軍と共闘した独立運動家も激しく日本と敵対するようになる。鈴木敬司など、日本軍の中にも彼らの独立運動をほんとうに支援したいと望んだ軍人もいたが、結局、他国へ配置換えになってしまった。もともと日本軍が東南アジアに進出したのは石油などの資源獲得のためだったので、これは必然の結末ではあったけど、もし現地の自治独立を認めていれば、石油などもそう高くはない値段で融通してもらえただろうし、戦後も、強いアジアの連帯をもとに計り知れない国益を挙げられたかもしれない。