辺譲の死について

陳琳は官渡決戦に際して、「曹操が辺譲を殺したから、兗州の人々は怨みを抱いて一州こぞって反対することになった。曹操が徐州地方で追い詰められ、土地を呂布に奪われたのはそのせいだ」と言っている。呂布が兗州を奪ったのは興平元年(一九四)だから、辺譲が殺されたのはそれ以前のはず。なのに『後漢書』辺譲伝では建安年間(一九六〜二二〇)に殺されたと言っている。陳琳の勘違いなのか、それとも『後漢書』の誤記なのか…。