光武帝紀3 「挙兵」

後漢紀』抄訳の第三回目です。原典にそういう区切りがあるわけではなくて、私がきりのいいところで勝手に区切ってそれっぽいタイトルを付けているだけです。今回はいよいよ劉秀が義勇軍を起こします。なお、前回、第二回目の最後に一段落を追加しました。


そのころ劉秀は李通と相談して、騎士試験の日、前隊大夫の甄阜(けんふ)と属正の梁丘賜(りょうきゅうし)を人質にとって民衆を立ち上がらせようと計画を練っているところだった。そこで劉秀と李軼は舂陵に帰って義勇軍を起こし、李通の甥・李季には長安へ行かせて李守に報告させることにした。李季は道中で病気にかかり死んでしまったが、そのことを知った李守は密かに逃亡しようと企てた。

すると同郷の友人である黄顕(こうけん)が「関所の監視は厳重だし、きみは人並みはずれた容姿の持ち主だ。逃げ切れるはずがない。それよりもこっちから宮殿へ行った方がいい。計画がまだ発覚してなければ助かるだろう」と言った。李守はその通りだと思って参内して辞職願いを出した。ちょうどその時、李通らの陰謀が発覚し、李守は牢獄に閉じ込められてしまう。黄顕が「李守が息子の非道を知りながら逃亡しなかったのは、彼が信義の人だからです。私が保証人になりますので、李守を東方へ行かせて息子を説得させましょう。それで裏切るならそのときこそ首を斬ればよいのです」と進言すると、王莽はそれを聞き入れた。ところが李通の陰謀についての甄阜の報告書を読むと、王莽は腹を立てて李守を殺したくなり、それに反対した黄顕といっしょに処刑した。長安にいた李守の家族はすべて殺され、南陽に残っていた李通の兄弟・親戚たちもほとんどが殺された。逃げのびられたのは李通や李軼など、ごくわずかな人数だけだった。

そのころ劉秀の兄・劉縯は土地の有力者たちを集めて相談を持ちかけていた。「何年も日照りが続き、各地で兵乱が起こっている。これは天が王莽を滅ぼそうとしているのだ。高祖(劉邦=りゅうほう=)の偉業をなしとげるのはこの時だぞ!」人々はみな賛同した。そこで子分たちをやって訒晨には新野で挙兵させ、劉秀と李通・李軼には宛で挙兵させ、劉縯自身は舂陵の若者を集めることにした。若者たちは驚いて「劉縯は俺たちを殺しにきたのか」と言いながら物陰に隠れたが、赤い着物と大きな冠をつけた劉秀を見て、ようやく「あのきまじめ屋の劉秀も一緒なのか」と安心した。こうして七〜八千人の若者たちを集め、子分を部将とした。また、親戚に劉嘉(りゅうか)という人がいて、この劉嘉が、王鳳(おうほう)・陳牧(ちんぼく)の率いる新市兵・平林兵という武装集団を仲間に引き入れた。

彼らは合流して進撃し、西方の長聚を攻撃した。劉秀はこの戦いで新野尉を倒して馬を奪い、それまでの牛から乗り換えた。さらに進撃して唐子郷を陥落させ、湖陽尉を倒した。このとき戦利品の分配が公平でなかったため、兵士たちは腹を立てて劉氏を攻撃しようとした。そこで劉秀は親戚一同を説得して戦利品をすべて兵士たちに分け与えたので、人々はようやく満足した。またも進軍して棘陽を陥落させたが、小長安というところで王莽の前隊大夫甄阜・属正梁丘賜と戦い、さんざんな大敗を喫して棘陽に逃げかえった。甄阜・梁丘賜が藍郷に輸送部隊を残したまま、勝利に乗じて劉秀らを追撃すると、劉縯は夜中にこっそりと藍郷を襲撃し、輸送物資をすべて横取りした。

十一月、ほうき星が張(星座の名)の辺りに現れて東南方向に流れてゆき、五日後に消えた。張は長安地方の象徴であり、その運気が洛陽地方へ流れたのは、のちに劉秀がその地に帝国の首都をきづいたことの前兆なのである。