光武帝紀7 「群雄割拠」

後漢紀』抄訳の第七回目。王莽を倒したとはいえ、それですんなり漢王朝が復興できたわけではありません。というのも、赤眉軍を初めとして中国各地で武装勢力が蜂起し、それぞれが野心を抱いて天下の成りゆきを窺っていたからです。
洛陽*1入りを果たした更始帝*2は、使者を派遣して樊崇*3らに降服を勧告した。樊崇らは頭目二十人あまりを連れて洛陽に出頭し、降服したので、みな列侯*4に取り立てられた。ところが、地元に残った連中が叛乱を起こしたため、(処罰を恐れた)樊崇らはすぐさま逃亡してふたたび軍勢の頭目に収まり、二手に分かれて、樊崇自身は開封*5から南陽*6へと進出し、徐宣*7・謝禄*8らは陽翟*9から河南*10を攻撃した。

このころ、豪傑どもが一斉に立ち上がっていた。廬江*11の張歩*12は琅邪*13で、劉芳*14は安定*15、董憲*16は東海*17秦豊*18は黎丘*19で立ち上がり、そのほか赤眉*20、銅馬*21、青犢*22、高湖*23重連*24など、それぞれが数万人の軍勢を抱え、十ヶ月ばかりのあいだに天下に蔓延した。

隗囂*25は字*26を季孟*27といい、天水*28成紀*29の人である。若いころから郡役人を勤め、涼州*30では名を知られていた。叔父の隗崔*31は有力な侠客であり、人々の気持ちをよくつかんでいた。王莽*32軍が昆陽*33で敗北し、更始帝が宛城*34で即位したと聞いて、隗崔は挙兵して漢軍に呼応しようと考えた。隗囂は「軍事は不吉なものです。一族がどうなることやら!」と反対したが、隗崔は聞き入れず、兵士数千人を集め、王莽の鎮夷*35大尹*36李育*37を攻め殺した。

その後、隗囂は主君に立てられ、やむを得ず(その地位に就き)、平陵*38の方望*39を招いて軍帥*40とした。方望は言った。「王莽はいまなお長安*41を押さえて、漢は天命をお受けしていないのだと称しております。これではどうして人々の信頼を得られましょうか?すぐさま漢の高祖*42廟を建立し、臣下の立場でお祭りすべきです。」隗囂はその言葉を聞き入れ、漢の宗廟を建立して祭りを済ませ、こう言った。「我らが誓いを立てるのは天意を受けて劉氏を助けるためだ。悪事を企てる者あらば神罰が下るであろう。」

隗囂は軍勢十万人を率いて安定を攻撃した。安定太守*43である王向*44は王莽の従弟、王譚*45の子である。威信は郡内に鳴りひびき、属県は一つとして叛乱しなかった。隗囂が天命について言いきかせても、王向は聞き入れず、役人や兵士が傷付くことになるだろうと警告しても、やはり聞き入れなかった。そこで進軍して王向を捕らえ、百姓たちを落ちつかせてから処罰を行ったところ、安定郡はすっかり降服した。長安でも兵乱が起こって王莽が殺されたので、隗囂は諸将を派遣して隴西*46・武都*47・金城*48・武威*49・張掖*50・酒泉*51・燉煌*52をすべて攻略した。

公孫述*53は字を子揚*54といい、茂陵*55の人である。成帝*56の時代に清水*57の長*58となり、五つの県の統治を兼任した。悪事は働くことさえできず、郡内では「神業だ」と評判だった。王莽の時代には導江*59卒正*60を兼務し、やはり有能だと評価された。

更始帝が即位したとき、南陽の宗成*61が将軍を自称して漢中*62で兵隊数万人を集め、そのまま成都*63へ進入した。公孫述は導江卒正として臨邛*64で政務を執っていたが、県内の豪傑たちを招いて「天下の人々はみな新王朝を恨んで劉氏を懐かしんでおる。それゆえ漢の将軍*65が来たと聞いて出迎えたのだ。ところが百姓たちは罪もないのに捕らえられ、家屋は放火された。やつらは盗賊であって義勇兵ではないのだ。私は郡政を行って自衛し、真の君主を待ちたいと思う。協力してくれるなら残れ、そうでなければ去れ」と告げた。豪傑たちはみな土下座して命を投げだすことを誓った。

公孫述は城内から兵士千人あまりを動員し、ある人に漢の使者のふりをさせて、その人から印綬を受け取って輔漢将軍*66益州*67と称した。北進して成都に着いたころには軍勢は数千人になっていた。そのまま宗成を攻撃してこれを大破、益州を完全に領有した。

李憲*68は潁川*69の人である。王莽の時代、廬江郡で賊徒十万人あまりが蜂起したので、李憲は偏将軍*70としてこれを攻撃、数年かけて平定した。王莽が敗北したあと、李憲は廬江郡守*71の地位に就き、淮南王*72と自称した。

張歩は琅邪の人である。漢軍が挙兵したとき、張歩もまた兵隊千人あまりを集めて隣県、数十ヶ所を攻撃した。

劉芳は安定三水*73の人である。本姓は盧*74であった。王莽時代の末期、天下の人々がみな漢王朝を懐かしんでいたので、劉芳は武帝*75の子孫だと詐称し、姓名を劉文伯*76と改めた。王莽が敗北すると、劉芳は三川属国*77の羌*78・胡*79どもと北方で挙兵した。

董憲は字を僑卿*80といい、東海胊*81の人である。父がある人に殺されたため、董憲は侠客を集めて報復し、人数が増えてきたのでそのまま属県を攻撃した。

秦豊は南郡*82黎郷*83の人である。若いころ律令を学び、県役人となった。漢軍が挙兵すると、秦豊は同郷の蔡張*84・趙京*85らとともに挙兵。手勢数千人で宜城*86・襄陽*87といった諸県を陥落させ、黎丘王*88と自称した。

劉永*89はもともと梁王*90の王子であったが、王莽に改易されて庶民に下されていた。更始帝が即位すると洛陽へ赴き、梁王に取り立てられた。

*1:らくよう。県名。

*2:こうしてい。劉玄(りゅうげん)のこと。

*3:はんすう。赤眉軍頭目

*4:れっこう。諸侯。

*5:かいほう。県名。

*6:なんよう。郡名。

*7:じょせん。

*8:しゃろく。

*9:ようたく。県名。

*10:かなん。郡名。

*11:ろこう。郡名。

*12:ちょうほ。

*13:ろうや。郡名。この一節は「李憲は廬江で、張歩は琅邪で」の誤り。

*14:りゅうほう。

*15:あんてい。郡名。

*16:とうけん。

*17:とうかい。郡名。

*18:しんほう。

*19:れいきゅう。県名。

*20:せきび。山東半島の盗賊集団。眉を赤く塗ったことからその名で呼ばれる。

*21:どうば。盗賊集団の一つ。

*22:せいとく。同上。

*23:こうこ。同上。

*24:ちょうれん。同上。原文では「董達」(とうたつ)とあるが『後漢書』により改める。

*25:かいごう。

*26:あざな。通称。実名を呼ばないのが礼儀とされた。

*27:きもう。

*28:てんすい。郡名。

*29:せいき。県名。

*30:りょうしゅう。州名。

*31:かいさい。

*32:おうもう。新王朝の皇帝。前漢を滅ぼした。

*33:こんよう。県名。

*34:えんじょう。宛県。

*35:ちんい。新の郡名。漢の天水にあたる。『後漢書』では「鎮戎」とある。

*36:たいいん。新の官名。漢の太守にあたる。

*37:りいく。

*38:へいりょう。県名。

*39:ほうぼう。

*40:ぐんすい。ここでは軍師(ぐんし)と同じ。

*41:ちょうあん。当時は「常安」(じょうあん)と呼ばれていた。王莽が都とした地。

*42:こうそ。劉邦(りゅうほう)のこと。前漢創始者

*43:たいしゅ。官名。郡の長官。

*44:おうしょう。

*45:おうたん。

*46:ろうせい。郡名。

*47:ぶと。同上。

*48:きんじょう。同上。

*49:ぶい。同上。

*50:ちょうえき。同上。

*51:しゅせん。同上。

*52:とんこう。同上。「敦煌」とも書く。

*53:こうそんじゅつ。

*54:しよう。

*55:もりょう。県名。

*56:せいてい。劉驁(りゅうごう)のこと。

*57:せいすい。県名。

*58:ちょう。官名。県の長官。世帯数一万以上の県に令、一万未満の県に長を置いた。

*59:どうこう。新の郡名。漢の蜀郡にあたる。

*60:そっせい。新の官名。郡の長官。漢の太守にあたる。

*61:そうせい。

*62:かんちゅう。郡名。

*63:せいと。県名。

*64:りんきょう。県名。

*65:宗成のこと。

*66:ほかんしょうぐん。官名。輔漢は「漢を補佐する」の意。

*67:えきしゅうぼく。官名。益州(えきしゅう)の長官。

*68:りけん。

*69:えいせん。郡名。

*70:へんしょうぐん。官名。

*71:ぐんしゅ。官名。太守に同じ。

*72:わいなんおう。

*73:さんすい。県名。

*74:ろ。

*75:ぶてい。劉徹(りゅうてつ)のこと。

*76:りゅうぶんぱく。

*77:さんせんぞっこく。地名。属国は郡に準ずる。

*78:きょう。少数民族の名。

*79:こ。同上。

*80:きょうけい。

*81:く。県名。

*82:なんぐん。郡名。

*83:れいきょう。県名。

*84:さいちょう。

*85:ちょうけい。

*86:ぎじょう。県名。

*87:じょうよう。同上。

*88:れいきゅうおう

*89:りゅうえい。

*90:りょうおう。梁国の国王。