Wikipediaをfix その2

【Wikipedia】趙範の項に、なんか不思議なことが書いてある。

彼が趙雲の遠い親戚かどうかは判断できない。ただ、『後漢書』「南蛮伝」と『三国志集解』、『水経注』によると、趙範は秦末〜前漢初期の広東地方の南越の初代王の趙佗(この人も常山郡真定県出身と『史記』「南越列伝」に記されている)の末裔といわれるが、真偽の程は定かではない。

また、『後漢書』「南蛮伝」の記載では、南越国南部に属する交阯の西南地方である噉(かん)族の地域では人食いの風習があったとされる。それによると、最初の子供が生まれると直ちに殺害し、その中で美味なものはその王に献上し、王からその父親に褒美を賜る蛮習があったという。今日の烏滸族(現在のチャム族、噉族の末裔か)がその風習を持っていたという。

つまり、趙範趙雲に対する亡き嫂を献上する行為は人食いの風習とは全く違うが、ある意味噉族の風習と類似している部分が見られるという。そして、趙範の遠祖とされる南越王の趙侘自身はその風習の影響を受けなかったと思われるが、その末裔は南越化したことは推測できる。

趙範を烏滸蛮とからめるのは私が勝手に始めたことなんだけど、そんなの公共性の求められるWikipediaに書くようなことじゃない。だいたい私が烏滸蛮の記事を引いたのは「妻を娶ったとき美人であれば兄に譲る」というのが趙範の行為に類似しているからであって、兄嫁の死体を献上したからじゃないし、というかそもそも趙範の兄嫁はまだ死んでない。噉人國(食人風習のある国)を「噉族の地域」と読んでるのもヘンだ。なんか、もう、めちゃくちゃ。趙佗はたしかに真定の出身だけど、『後漢書』にも『三国志集解』にも『水経注』にも趙範がその末裔だなんて一言も書いてない(書いてたら私がまっ先に飛びつきますってば。え、私の見落としですかそうですか…)。ただ後漢の桂陽太守に趙越という人がいるので、この人と混同しているかもしれないと限りなく善意に解釈。

当該箇所をばっさり削除。